今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その年の大みそかがやってきた。白い割烹着を着た安寿は岸家の台所で咲の手伝いをしていた。咲はハミングをしながらおせち料理を次から次へと手際よくつくっている。

 咲に頼まれて安寿は紅白かまぼこを包丁で丁寧に切り、いかにも高級そうな美しい輪島塗の重箱に詰めた。安寿は家族が五人そろって迎えた幼い頃の正月を思い出した。

 (そうそう、せっかくきれいにお重に詰めたおせち料理をおじいちゃんが大みそかの夜につまみ食いして、おばあちゃんに怒られていたっけ)
 
 それはもう過ぎ去ってしまった遠い思い出だ。今、安寿はその時に想像もしなかった場所に立っている。

 咲が安寿に向かって目を細めて微笑みかけた。安寿は咲の優しいまなざしに瞳の奥が潤んだ。

 (料理のまわりには、いつのまにか大切な思い出ができるんだ。その時、一緒にいた人たちとの光景とともに……)

 安寿は航志朗のためにピザをつくった時に、キッチンで航志朗と抱き合ってキスしたことを唐突に思い出して、人知れず頬を赤らめた。

 そこへ明日の正月を早々に想い起させる筑前煮の香りに誘われて、アトリエの大掃除を済ませた岸が台所に顔を出した。

 「おいしそうですね」

 岸は安寿を見て微笑んだ。

 「安寿さん、割烹着がよくお似合いですよ」

 思わず顔を赤らめた安寿は下を向いて小さな声で言った。

 「岸先生、ありがとうございます」

 安寿の恥じらいの様子を見た咲が笑顔を浮かべて弾むような口調で言った。

 「宗嗣さま、お正月の安寿さまのお着物姿もお楽しみになさっていてくださいませ。安寿さま、明日の朝、お部屋にお着物を着付けにうかがいますね」

 「はい。咲さん、よろしくお願いします」

 今、安寿の部屋には華鶴に贈ってもらった若葉色の訪問着が掛けてある。正絹の高級感の漂う上質な肌触りの着物で、その雲取りと四季の花の絵羽模様は美しい一枚の絵のようだ。帯には金糸と銀糸の華やかな吉祥文様が織り込まれている。

 十二月の初旬に老舗呉服店の主人が自ら岸家におもむいて届けてくれた。その着物に初めて袖を通した時に安寿はため息をついて顔を曇らせた。高校の展覧会で最優秀賞を取った祝いの品に華鶴が選んでくれた着物だが、内心ではあまり嬉しくはなかった。

 (こんな高価な着物は、私には全然ふさわしくない……)

 当の華鶴は、クリスマスの翌日からオアフのマリコ・アネラ・ナカジマのところに行っていて不在にしている。

 すでに外は日が落ちて暗くなってきた。天ぷらを揚げ終えた咲はいそいそと年越し蕎麦を茹ではじめた。

 午後十時を過ぎて伊藤夫妻は自宅に帰った。屋敷の中で安寿は岸と二人きりになった。

 「安寿さん。よろしかったら、私と年越しをしませんか?」と岸がごく控えめに訊いた。

 「……はい」とパジャマに厚手のガウンを羽織った安寿はうなずいた。

 岸は台所に行ってハーブティーを淹れてきた。そして、古いレコードをかけた。ラフマニノフの交響曲第二番だ。その大みそからしい大編成のオーケストラが奏でる重厚な音に耳を傾けた安寿は、今年の夏に航志朗が目の前に置いてあるグランドピアノを弾いてくれた時のことを思い出した。

 航志朗の情熱的に鍵盤をたたく指先とあの追いかけられるような音色が、鮮明に安寿の目と耳の奥によみがえってきた。

 急に安寿は航志朗に会いたいという気持ちが高まってきた。そのとめどなくあふれる想いは今の安寿の存在のすべてを覆った。

 ずっと安寿は年末年始に航志朗が帰国するかもしれないと淡い期待を抱いていたが、結局、航志朗からは何の連絡もなかった。やっぱり航志朗はシンガポールのほうに行ったんだと安寿は胸の奥がかき乱された。

 サロンのソファで向き合って座って物静かにハーブティーを飲んでいる岸の姿を安寿は顔を上げて見た。どちらかといえば航志朗は母親の華鶴似だが、もちろん岸にも姿形が似ている。思いこがれるまなざしで、安寿は岸を見つめてしまった。岸はそれに気がついて、安寿に優しく微笑みかけた。すぐに我に返った安寿は頬を赤らめてティーカップに目を落とした。

 甘くロマンチックなだけではない深い孤独感にあふれる交響曲のアダージョの第三楽章の旋律が、安寿の心を激しく揺さぶる。思わず安寿は深いため息をついた。

 穏やかな琥珀色の瞳で岸は安寿に尋ねた。

 「安寿さんは、大学では油絵を学ばれるのですか」

 「はい。そのつもりでいます。実は、日本画にも興味があるので、そちらの講義も受けてみたいと思っています」

 岸は感心したように何度もうなずいて言った。

 「油絵に限らず、さまざまな芸術を学ぶことは、あなたの将来にとってよいことだと思います。大学生活が楽しみですね。日本画は私の母も趣味で描いていましたよ」

 「はい。以前、航志朗さんからお聞きしました」

 「そうですか。もし母が生きていたら、あなたと話が合ったかもしれませんね。安寿さんは、なんとなく母に似ているので」

 安寿は無言で岸を見つめた。岸は安寿を見つめ返した。岸の航志朗と同じ琥珀色の瞳はいつも哀しそうに陰っている。ふたりはしばらく沈黙した。やがて、レコードプレーヤーが最後の第四楽章を壮大に奏でて停止した。サロンに静けさが戻ってきた。

 うつむいた岸がそっとつぶやくように言った。

 「まさか、あなたとこういう時を過ごせるとは思ってもみませんでした」

 そして、少し顔を曇らせて岸が言った。

 「安寿さん。あなたは、航志朗を……」

 その時、安寿のスマートフォンが鳴った。航志朗からだった。画面を一瞥した安寿は呼び出し音を消音にして、ガウンのポケットにスマートフォンをしまった。胸の鼓動が早まってくるのを耳の奥で感じるが、安寿は努めて平静さを装った。

 「失礼しました。あの、岸先生、なんでしょうか?」

 「安寿さんは、航志朗のことをどう思っていらっしゃるのですか?」

 思いがけない岸の問いかけに戸惑った安寿は、少し考えてから答えた。

 「航志朗さんは、私にいろいろ気を遣ってくださって、本当に感謝しています」

 岸は目を伏せてつぶやいた。

 「……感謝、ですか」

 除夜の鐘の音が遠くから微かに聞こえてきた。そろそろ新年が明ける。岸は音もなく立ち上がり安寿のそばに寄って来て言った。

 「安寿さん、そろそろ休みましょうか」

 岸の右手は安寿に触れるかのように空間を漂ったが、岸はそれをそっと下ろした。

 安寿は岸のその手の動きに気づかすに会釈した。

 「岸先生、おやすみなさいませ」

 「おやすみなさい、安寿さん」

 岸は安寿に微笑んでサロンを静かに出て行った。それから安寿はレコードプレーヤーの電源とサロンの照明を消して、台所に行ってティーセットを洗った。そして、暗く長い廊下を歩き、自室にゆっくりとした足取りで戻って行った。

 ベッドに腰掛けた安寿は一度深呼吸をしてから航志朗に電話をかけようとした。その時、突然、航志朗からの着信音が再び鳴った。あわてた安寿はすぐにスマートフォンをタップしてしまった。

 いきなり勢いのある明るい声がした。

 『安寿、ハッピーニューイヤー!』

 安寿はほっとして言った。

 「航志朗さん、明けましておめでとうございます」

 『さっきも電話したけど、トイレにでも行っていたのか? 応答がないから心配した』

 「すいません。二度手間をおかけしてしまいました」

 『安寿、クリスマスにも年末年始にも帰国できなくて、本当にすまなかった。航空券が取れなくて、アイスランドで足止めだったんだ』

 「そうでしたか」

 安寿はひそかに思った。

 (彼はアイスランドにいるんだ。……シンガポールじゃなくて)

 『ごめん、君に会いに行けなくて』

 「……いえ」

 『そうだ、安寿。もちろんサイズはちょうどよかっただろ?』

 安寿は怪訝そうに答えた。

 「サイズ、ですか?」

 『あ、まだ届いていないんだ』

 「なんのことですか?」

 『いや、なんでもない』

 わけがわからずに安寿は首をかしげた。

 レイキャビクのアパートメントの窓から航志朗は澄みきった青空を見上げた。快晴のアイスランドは、まだ十二月三十一日だ。スマートフォンの向こうに、航志朗は安寿の息遣いを生なましく感じて、どうしようもなく身体がうずいてきた。航志朗は安寿の存在のすべてを心の底から求めた。そして、安寿の耳元を思い浮かべて、ささやくように言った。

 『安寿、……今、君とキスしたい』

 その突然の甘い言葉に安寿は真っ赤になった。

 『それから、君を思いきり抱きしめたい』

 安寿の胸の鼓動が早鐘を打った。スマートフォンを持つ左手が震える。

 思わず安寿は口に出した。

 「航志朗さん、私……」

 『ん? なんだ、安寿』

 安寿は目を固く閉じて言った。

 「あの、……そろそろ眠ります」

 『ごめん、忘れてた。そっちは深夜か。おやすみ、安寿』

 「おやすみなさい、航志朗さん」

 遠い距離をへだてた会話は終わった。安寿はスマートフォンを胸に抱いて心のなかで言った。

 (航志朗さん、私、あなたが好きです……)

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