今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その夜、いつもよりエルヴァル邸に長居した航志朗は、アンナの子どもの遊び相手になっていた。エルヴァル家の姉妹たちはすっかり航志朗を気に入ってしまっていて、デカフェを飲みながらクッキーをつまんで言い合っていた。

 クッキーの破片を口の中で転がしながらサーラが言った。

 「あーあ! コーシがフリーだったら、絶対に、私、今の彼を振って、コーシの恋人に名乗りを上げたのになあ」

 フレイヤがうんうんとうなずいて言った。

 「サーラに同感!」

 育児疲れで気だるそうなアンナが妹たちを交互に見て言った。

 「まあまあ、あなたたち。恋のライバル同士にならなくてよかったじゃない。我が姉妹たちのささやかな平和に乾杯!」

 そう言うとアンナはコーヒーカップを適当に掲げた。

 アンナが子どもの遊び道具に持って来たクレヨンを航志朗は感心して手に取った。そのクレヨンは蜜蝋で作られていて、野菜から抽出された天然の色素で色づけされている。

 「へえ、小さな子どもが誤って口に入れても安全なんだ。これ、よくできているな」

 アンナが航志朗に声をかけた。

 「コーシ、それってメイドインジャパンよ!」

 思わず航志朗は肩をすくめた。床の上には大きな画用紙が広げてある。ご機嫌な様子のアンナの子どもはクレヨンを数本握って、画用紙に豪快に叩きつけていた。

 航志朗はくすくす笑って、ダークブラウンのクレヨンを手に持って描き出した。それは、安寿が航志朗の黒革の手帳に描いた牛の絵をまねしたものだった。航志朗は次々に牛を描いていった。アンナの子どもが手を止めてまん丸い瞳で興味深そうにその牛たちを見つめた。航志朗はアンナの子どもに優しいまなざしで語りかけた。

 「クラウス、面白いか? これ、アンジュが描いた牛だよ」

 姉妹たちも画用紙の周りに集まって来た。

 腰に手を当てたアンナが上からのぞき込んで、心から感心したように言った。

 「あら、コーシって絵心があるのね」

 「とっても可愛い!」

 サーラとフレイヤが楽しそうに微笑んだ。

 そこへ風呂に入っていたクルルがやって来た。クルルは長い髪の毛をターバンのようにタオルで巻いている。クルルはテーブルの上に置いてあるクッキーをつまんで口に入れた。クラウスがクルルのところにひょこひょこと歩いて近寄って来て、両手を上げてクルルに抱っこをせがんだ。クルルは慣れた様子でクラウスを抱き上げた。そして、なにげなくクルルは床の上の画用紙に目を落とした。

 その瞬間、クルルに天からアイデアが降って来た。

 突然、クルルは顔を真っ赤にさせて大声で怒鳴った。

 「その絵、誰が描いたんだ!」
 
 クラウスが肩をびくっとさせてクルルにしがみついた。アンナがあわてて答えた。

 「コーシよ……」

 クルルは航志朗をにらみつけた。その場にいた誰もがクルルの激しい態度に驚いた。いつもクールで冷静沈着なクルルがぎらぎらと目を血走らせて息を荒くしている。航志朗は努めて穏やかに言った。

 「アンジュが俺の手帳に描いた絵をまねして描いたんだ」

 すでにある予感が、航志朗の脳裏に浮かんでいた。

 (安寿の絵がクルルを救うかもしれない)

 航志朗はダウンジャケットの内ポケットから黒革の手帳を取り出して開き、安寿が描いた牛の絵をクルルに見せた。クルルは真剣なまなざしでそれを食い入るように見つめた。そして、命令するような強烈な口調で航志朗に言い渡した。

 「アンジュを僕の美術館のアーティストとして採用する。彼女にはエントランスのドームに飾る作品を制作してもらう。来週、僕も君と一緒にトーキョーに行く。いいな、コウシロウ!」

 にやっと笑った航志朗がおどけた口調で言った。

 「了解、ボス!」

 当然ながら内心で航志朗は思った。

 (安寿と二人きりの時間を絶対に邪魔しないという条件付きだがな)

 三姉妹がぽかんとクルルと航志朗を見つめた。クラウスが自分に注目が向いていないことに気づいたらしく、「うーうー」と怒ったようにクルルに文句を言った。クルルはそんなクラウスの頬にキスして、彼を愛おしそうに抱きしめた。

 その時、最近付き合い始めたばかりの新しい恋人と会っていたエルヴァルが帰宅した。赤い顔をして上機嫌のエルヴァルはクルルをクラウスごと抱きしめて、ふたりの頬に次々と酒臭いキスをして言った。

 「君たちを心から愛している!」

 クルルとクラウスは顔を思いきりしかめた。それを目の当たりにした姉妹たちは腹を抱えてげらげらと笑った。その光景を航志朗は微笑ましく見て思った。

 (……家族か。俺と安寿もこれから本当の家族になっていくんだな。進展がかなりスローだけど、まあ、それが俺たちのペースだ)

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