今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 清華美術大学付属高校の卒業式の朝がやって来た。目覚まし時計のアラームが鳴るよりも前に、安寿は目を開けた。安寿は窓辺に向かいカーテンを開けて今朝の空を見上げた。快晴だ。朝日を身体じゅうに浴びて、安寿は胸が高鳴った。その弾んだ胸を安寿は両手で強く押さえた。

 (今日、七か月ぶりに航志朗さんに会える!)

 その一週間前の日曜日の朝、突然、航志朗から電話がかかってきた。航志朗は卒業式に出席するために帰国すると安寿に伝えた。思わず安寿は飛び上がりたくなるほど嬉しさがこみ上げてきた。それから、航志朗はいつもよりも低い声で申しわけなさそうに言った。

 『安寿、今の俺のボスから、君に作品を依頼されたんだ。詳細は一緒に帰国するボスから話す。滞在期間は一週間だ。その間に、君に百枚の絵を描いてもらいたい』

 安寿はすぐに航志朗の話が飲み込めずに戸惑った。

 「百枚の絵、ですか?」

 『そうだ。君が俺の手帳に描いたあの牛を百頭、描いてもらいたい』

 「は、はい……」

 安寿は急に心配になってきて口ごもった。

 (一週間で百枚なんて描けるかな。私、線を描くのは早いけれど、色を塗るのは遅筆なのに)

 安寿はゆっくりと制服に着替えた。この制服を着るのは今日で最後だ。安寿は着替えながら、この制服を着て航志朗と過ごした時間を思い出していた。左手の薬指の結婚指輪を安寿は右手で愛おしそうになでた。そして、ブックシェルフからローマングラスのペンダントを手に取って首にかけ、制服のブラウスの中にしまい込んだ。

 その時、航志朗とクルルは成田国際空港に降り立っていた。アイスランド・ケプラヴィーク国際空港から約三時間かけて、デンマークのコペンハーゲン空港へ向かって乗り継いで、成田国際空港まで約十二時間かかった。長い空の旅だった。クルルは国外へ何回も出かけていて、まったく航志朗に手間を取らせなかった。飛行機に搭乗するのも慣れた様子で、機内ではマイペースにくつろいでいた。

 ボーディング・ブリッジを歩きながら七か月ぶりの日本の晴れ渡った空を見上げて、航志朗はどうしようもなく胸が高鳴った。

 (もうすぐ安寿に会える! 俺はすぐに安寿を抱きしめて、思いきり彼女にキスする。夜はベッドで抱き合って一緒に眠る。それから……)

 急に身体じゅうがうずいてきて、航志朗は顔を紅潮させた。隣にいるクルルがあきれたように航志朗を見上げた。そして、クルルは甘い妄想が渦巻く航志朗の頭のなかを見透かして、航志朗に冷ややかに言い渡した。

 「コウシロウ、僕の大切なアーティストを、君の七か月間たまりにたまった性欲で寝不足にするなよ。作品のクオリティが下がるからな。いいな?」

 航志朗はその直球すぎる言葉に絶句した。

 (本当にクルルは十六歳なのか。俺と同じ歳くらいのもの言いだよな。というより、七か月間どころじゃないんだけどな……)

 思わず航志朗は深くため息をついて肩を落とした。

 航志朗とクルルが到着ロビーに行くと、伊藤がふたりを出迎えた。伊藤は流暢な英語でクルルに丁寧にあいさつした。

 「クルルさま、ようこそおいでくださいました。私は、キシ家の執事(バトラー)のイトウと申します。ご滞在中、なんなりとお申しつけくださいませ」

 移動中にインターネットで日本語のあいさつの仕方を覚えたクルルは、「ハジメマシテ。クルルデス。ドウゾヨロシクオネガイイタシマス」と言って、ぎこちなく身体を折ってお辞儀をした。その様子を隣から航志朗が見てくすっと笑った。すかさずクルルは仏頂面をして航志朗をにらみつけた。

 伊藤が航志朗にいつもの穏やかな口調で言った。

 「航志朗坊っちゃん、おかえりなさいませ。さっそくですが、ご指示の通りにご用意いたしました」

 「伊藤さん、ありがとうございます。助かります。安寿は元気にしていますか?」

 伊藤は微笑んでうなずいた。

 「はい。この一週間、とても嬉しそうなご様子でいらっしゃいました」

 「そうでしたか……」

 航志朗は下を向いて嬉しさでほころんだ顔を隠した。

 「航志朗坊っちゃん、そろそろお立ちになったほうがよろしいかと。安寿さまのご卒業式は、午前十時からです」

 「そうですね。クルルをお願いします」

 「お任せくださいませ」

 航志朗はクルルに早口で言った。

 「じゃあ、俺は、アンジュの卒業式に出席してくるから、キシ家で待っていてくれ。終わったら、アンジュと迎えに行く」

 クルルは肩を上げて首を振った。

 「明日になりそうだな。まあ、気長に待ってるよ」

 クルルと伊藤は駐車場に向かった。航志朗は電車で東京駅に向かい、タクシーでマンションに帰った。

 すみずみまで清掃された七か月ぶりのマンションのリビングルームには、水色のビニールシートが敷かれている。また、書斎には簡易ベッドが設置されてあった。すぐに航志朗はシャワーを浴びて二階に上がり、ウォークインクローゼットに用意されていたダークグレーのスーツに着替えた。それからネイビーのソリッドタイを丁寧に締めて階段を駆け下りた。早朝に軽い機内食を口にしてはいたが、キッチンに置いてあった食パンにたっぷりと咲お手製のイチゴジャムをつけて食べた。

 卒業式が挙行される時間まで、あと一時間だ。航志朗はスリッパの入った巾着袋とミネラルウォーターのボトルをつかんで、急いでマンションの駐車場に向かった。

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