今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 安寿は航志朗の前に立った。安寿の目はまだ少し赤い。ふたりは無言でしばらく見つめ合った。やがて、航志朗が思いつめた感情をなんとか抑えつけて言った。

 「安寿、卒業おめでとう」

 「航志朗さん、ありがとうございます」

 安寿は航志朗にお辞儀をした。

 「安寿、行こうか。裏門の近くに車を停めてある」

 安寿はうなずいた。ふたりは並んで歩き出した。人けのない裏門に着くと、航志朗が安寿に言った。

 「安寿、その桜の木の下に立って。写真を撮ろう」

 安寿は素直に従った。スマートフォンを内ポケットから取り出した航志朗は満開の桜の木の下の安寿の姿を写真に収めた。安寿は仏頂面ではなく、桜の花びらが彩る薄桃色の光のなかで柔らかく微笑んでいた。

 そこへ山口が通りかかって、写真を撮っている安寿と航志朗に気がついた。山口はふたりに近づいて来て照れくさそうに言った。

 「岸さん、安寿さん、おふたりの写真をお撮りしましょうか?」

 航志朗は礼を言ってから、山口にスマートフォンを渡した。航志朗は安寿の隣に立って肩に手を回した。久しぶりの航志朗の手のひんやりした感触と彼の身体じゅうをとろけさせるような匂いに、安寿は一瞬で胸の鼓動が早まった。

 思わず安寿は航志朗を見上げた。航志朗は安寿に微笑みかけた。数枚写真を撮った後、スマートフォンを航志朗に返しながら山口が言った。

 「岸さん、安寿さん。ご結婚おめでとうございます」

 航志朗は顔には出さないが怪訝に思った。少し顔を赤らめた山口は安寿に微笑みかけながら言った。

 「安寿さん、卒業おめでとう。大学でもがんばってください。僕はこれからもずっとあなたの絵を楽しみにしていますよ」

 安寿は深々とお辞儀をして山口に礼を言った。

 「山口先生、三年間、大変お世話になりました。本当にありがとうございました」

 安寿と航志朗と別れて職員室に向かいながら、山口は心の底から思った。

 (あーあ。俺も結婚したくなってきたよ……)

 山口は大学時代からつかず離れず付き合っている彼女の顔を思い浮かべた。

 安寿と航志朗は車に乗り込んだ。航志朗はネクタイを外して後部座席に放り投げ、シャツのボタンを一つ外した。車の中で二人きりになってから、しばらくふたりは沈黙した。安寿は恥ずかしくて顔を上げられなかった。安寿は目の前にあった飲みかけのミネラルウォーターのボトルを手に取ると、それをごくごくと飲んだ。その姿を目を細めながら見た航志朗は、安寿の胸元に手を伸ばした。とっさに安寿は身を引いたが、航志朗は安寿の左胸についているコサージュを外して、ダッシュボードの上にそっと置いた。そして、航志朗は安寿の黒髪に手を触れて言った。

 「少し髪が伸びたんだな……」

 安寿は真っ赤になってうつむいた。

 いきなり航志朗は安寿をきつく抱きしめた。あふれ出てくる熱い想いに安寿はもう泣き出しそうになっていた。

 (航志朗さんに彼女がいても、私は彼が好き。もう、どうしようもないくらいに)

 安寿の肩に顔をうずめた航志朗はうめくように低い声で言った。

 「まったく君ってひとは。七か月ぶりに会った夫の目の前で、よく他の男と抱き合えるよな。俺の気持ちを考えろよ……」

 航志朗は安寿を抱きしめる腕の力を思いきり強めた。そして、航志朗は強引に安寿に唇を重ねた。

 安寿は必死に首を振り、唇を離して航志朗に訴えた。

 「航志朗さん、ここではやめてください! お願いですから……」

 航志朗はにやっと笑って言った。

 「だめか? もう君はここを卒業したんだから、別に問題ないだろ。まあ、君がそう言うなら、ここではやめておくか。でも、安寿、あとで覚悟しておけよ」

 安寿は頭がくらくらしてきて、頬だけではなく身体じゅうが熱くなってきた。胸の内で安寿は思った。

 (「覚悟」って、言われても……)

 航志朗は残りのミネラルウォーターを飲んでから、車を発進させた。三年間通った思い出深い校舎を懐かしむ余裕もなく、安寿は清華美術大学付属高校を後にした。

 
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