今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 各教室で安寿たち卒業生は卒業式が始まる時間を待っていた。安寿の隣に座った蒼は、スマートフォンの画面を見て最後の練習をしている。首席の蒼は卒業生代表として答辞を読みあげるのだ。

 安寿は窓の外を見て思った。

 (今、彼はどこにいるんだろう。もう講堂に来ているのかな)

 そわそわと落ち着かない様子の安寿を蒼が怪訝そうに見た。

 校長室では華やかな着物姿の華鶴とスーツ姿の岸が校長にあいさつをしていた。華鶴と岸は来賓として卒業式に招待されていた。

 笑みを浮かべて高野校長が言った。
 
 「白戸安寿さんは本当に将来有望ですよ。私は心から彼女に期待しています」

 華鶴は上品に笑って言った。

 「高野先生、ありがとうございます。私もお嫁さんも高野先生には大変お世話になりまして、心から感謝いたしております」

 その発言に心底驚いた岸が華鶴の横顔を見た。

 高野校長は目を大きく見張って言った。

 「まあ、『お嫁さん』ですって! 安寿さん、ご子息とご結婚されたのですか?」

 「ええ。大学から彼女は岸姓を名乗ります」

 高校の近くまで来たものの、航志朗は駐車場を見つけるのに時間がかかっていた。開催時刻まであと十分しかない。近隣のコインパーキングはどこも満車だった。おそらく卒業式に出席する保護者たちの車でいっぱいなのだろう。航志朗は高校の開いている裏門の中に駐車できそうなスペースを見つけた。許可されていないのかもしれないが、やむを得ず校内のそのスペースに車を停めた。

 そこには、一本だけ満開の桜の木が立っていた。思わず航志朗はその桜の木を見上げて目を細めた。航志朗はバックミラーで身支度を確認すると、走って講堂に向かった。講堂内の保護者席はほぼ満席だったが、一番後ろの端の席に座ることができた。正面を見ると、向かって左側の来賓席に岸と華鶴の姿が見えた。椅子に深く座り直した航志朗は腕を組んで目をつむった。

 卒業式が始まった。吹奏楽部がしめやかな曲を奏で始める。高らかな声で司会役の教諭が言った。

 「卒業生、入場」

 会場内に大きな拍手がわきおこり、入口から卒業生たちが一人ひとり入場して来た。卒業生は皆、胸に白い生花で作られたコサージュをつけている。航志朗の胸が早鐘を打ち始めた。だが、同時に、航志朗は心から愉快に思った。
 
 (七か月ぶりに会う安寿と、こんなかたちで再会するとはな)

 やがて、安寿が入場して来た。航志朗はすぐに安寿の姿を見つけた。七か月ぶりに見る安寿は少し髪が伸びていて、やや緊張した面持ちでいた。つぶさに安寿を見つめて、航志朗は激しい衝動にかられた。
 
 (今すぐ立ち上がって、彼女を抱きしめたい……)

 講堂に入場した安寿は航志朗の姿を探していた。ふと見ると、一番後ろの席に航志朗を見つけた。その瞬間、航志朗と目が合った。航志朗は笑顔を浮かべている。喜びで胸がいっぱいになった安寿も航志朗に微笑み返した。

 開会の辞の後、校歌の合唱が響いた。卒業生である華鶴も口ずさんだ。卒業証書授与が始まり、安寿の順番が来た。航志朗はスマートフォンの電源を入れて安寿の姿を撮影しようと構えたが、思い直してスマートフォンを下ろした。航志朗はその琥珀色の瞳で、しっかりと安寿が卒業証書を受け取る姿を見つめた。ふと視界の左側を見ると、華鶴が来賓席から立ち上がり、スマートフォンで安寿を撮影している姿が目に入った。航志朗は思わず苦笑いした。

 卒業証書を手に持った安寿は、席に戻る途中でまた航志朗と目が合った。一番後ろの席の航志朗は笑って大きく手を振った。安寿は頬を赤くしてうつむいた。それに気づいた蒼が後ろを振り返って航志朗の姿を見つけると、思いきり顔をしかめた。その後、退屈な祝辞が長々と続いた。在校生の送辞の後、蒼の出番が来た。蒼は壇上で淡々と担任の山口が用意した答辞を述べた。

 安寿はその蒼の後ろ姿を見て思った。この二週間、何度も考えたことを。
  
 (もし、蒼くんが、航志朗さんと結婚する前に告白してくれていたら、私はどうしたんだろう。蒼くんと付き合っていたのかな。莉子ちゃんと大翔くんみたいに。でも、それはなかった。それに、いずれ航志朗さんと離婚しても、私は蒼くんのところには行けないし、行かない)

 卒業式は閉会となり、卒業生たちは退場して行った。安寿はまた航志朗と目を合わせて胸が早鐘を打った。

 校門付近では大勢の保護者や在校生たちが、卒業生が校舎から出て来るのを待っていた。航志朗も建物のすみで安寿がやって来るのを待っていた。だが、安寿はなかなか出て来なかった。航志朗は腕を組んで壁に寄りかかった。やがて、集まった人びとがまばらになりはじめた頃、やっと安寿は友人たちと四人で連れ立って出て来た。航志朗はすぐに安寿の姿を見つけたが、安寿は航志朗が待っていることにまだ気がつかない。

 安寿と手をつないだ莉子が言った。

 「蒼くん、明日、本当に行っちゃうんだね」

 目を真っ赤にした莉子は半泣き状態だ。蒼が莉子に優しく微笑みながらうなずいた。すでに湿った花柄のハンカチで目を押さえた莉子は、突然思いついて蒼に向かって大声で言った。

 「ねえ、私、蒼くんとハグしたい!」

 蒼と大翔が驚いて顔を見合わせた。すぐに感極まった莉子は蒼の首に腕を回して抱きついた。思わず蒼は苦笑いした。蒼は大翔の顔色をうかがってから、軽く莉子を抱きしめた。蒼の配慮にまったく気づかずに莉子はきつく蒼にしがみついた。大翔の目の前で困惑した蒼は冗談めかして莉子に言った。

 「あれっ? 莉子って、けっこう胸が大きいんだな」

 顔を赤らめた莉子は、あわてて蒼から離れた。

 「もうっ、蒼くんったら!」

 すかさず「次は、僕の番だ」と言って、大翔も蒼をきつく抱きしめた。

 「蒼、また会おうな!」

 元ラグビー部の大翔に必要以上に羽交い絞めにされた蒼は、「……く、苦しいって、大翔」と唸った。それを見た莉子と安寿は大笑いした。

 そして、蒼は安寿を見た。安寿も蒼を見た。莉子と大翔は互いの顔を見合わせて、少し後ろに下がった。蒼は安寿になんともいえない優しい表情で微笑みかけて、右手を差し出した。安寿はその手を見つめた。

 安寿は顔を上げて、ゆっくりと蒼に抱きついた。それを見た莉子と大翔は微笑み合って手をつないだ。蒼は始め呆然としていたが、安寿の背中に手を回して、きつく安寿を腕の中に抱きしめた。

 蒼は安寿の耳元で言った。

 「安寿、ありがとう。君が俺に飛び立つ翼をくれたんだ」

 安寿は涙ぐんで言った。

 「蒼くん、ありがとう。いつかまた会おうね」

 ふたりはしばらく目を閉じて静かに抱き合っていた。やがて、蒼は安寿から離れて、三人の友人たちに言った。

 「じゃあ、行ってくる。……みんな、またな!」

 蒼は背を向けて、ひとり校門を出て行った。一度も振り返らずに。

 莉子は安寿の頬を自分のハンカチで拭いてから、自分の頬もぬぐった。

 ふと安寿が顔を上げると、航志朗が離れたところに立っているのが目に入った。安寿はスクールバッグと卒業証書と花束を手に持つと莉子と大翔に言った。

 「私も行くね。今度会えるのは、大学の入学式かな。莉子ちゃんと大翔くん、またね!」

 安寿は航志朗の方に歩いて行った。莉子は安寿が歩く方向の先を見て、思わず胸がどきどきしてしまった。

 (きゃー、安寿ちゃん! さっきの岸さんに見られちゃったんじゃないの!)

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