今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 (さて、さっさと用件を済ましてくるか……)

 朝食が済むと、航志朗は白い半袖Tシャツの上にネイビーのリネンシャツを羽織り、チャコールグレーのコットンパンツを穿いた。サングラスをしようとしたが、ここは日本なのだと思い直しチェストの上に置いた。

 はじめ航志朗はタクシーで出かけるつもりだったが、地下鉄を使うことにした。久しぶりの日本の雰囲気と日本語に囲まれることへの違和感を早く払拭したかったからだ。そうは言っても航志朗は、地下鉄の駅のエスカレーターの速度の遅さにいら立ち、地下鉄の車両の中に所狭しと掲示されたカラフルな日本語の広告に目がなかなか慣れなかった。航志朗は自分はこの国で生まれた日本人だというのに、今は外国人のようだなと内心苦笑いした。そして、航志朗は自問した。
 
 (いや、俺にはもともと外国の血が入っているんだ。とどのつまり、いったい俺はどこの国の人間なんだ?)

 航志朗の曾祖父、岸周(きしあまね)は、一九三〇年代にフランスに滞在していた。岸家の事業の一環でヨーロッパの美術品を買い付けに行っていたのだ。周はすでに結婚していて三人の子どもがいたが、パリである女と恋愛関係になった。折りしも第二次世界大戦が始まろうとしている時代だった。一九四〇年のナチス・ドイツのパリ侵攻目前に、周は幸いにも日本に無事帰国することができた。二歳のブルネットで琥珀色の瞳を持つ女の子を連れて。

 帰国した周は、パリであったことについて家族に何も語らなかった。連れ帰った女の子は、恵真(えま)と名付けられ、岸家の四番目の子どもとして認知された。周の妻は武家の家柄出身で気丈な性格だった。彼女は夫の不貞の子どもを黙って受け入れ、しかるべく育てた。戦後、周は東京郊外にある代々岸家が所有していた土地に別邸を建設した。どうしても外国人として悪目立ちしてしまう恵真を守るためだった。恵真はひっそりと郊外の別邸で暮らし、年頃になると周の腹心の部下であった新之助と結婚した。そして、ふたりの間に宗嗣が誕生した。

 航志朗は地下鉄に十五分ほど乗って銀座に着いた。十年ぶりのその街並みは、ずいぶん変わったように感じた。しかし、母の画廊は十年前のままだ。この建物は本当に無機質で無彩色に航志朗には見えた。まるで母の本性を象徴しているかのようだ。黒川画廊を見上げた航志朗のなかに、ずっと心の奥底によどんでいた憎悪がわきあがってきたが、大人になった航志朗はすぐにそれを強靭な精神力で押し殺した。
 
 (これはビジネスだ。私情は持つな)

 画廊の中は暗く、今日は営業をしていないようだった。だが、エントランスのドアは開いている。航志朗は中に入り階段を上がった。航志朗が四階のオフィスに着くと、華鶴がソファに座ってコーヒーを飲みながらタブレットを繰っていた。

 「今日は、珍しくおひとりなのですね?」

 航志朗は母の背後から声をかけた。

 振り返った華鶴は冷ややかに微笑みながら言った。

 「あら、航志朗さん。久しぶりにお会いしたのに、ずいぶんと冷たいことをおっしゃるのね」

 航志朗は窓際の椅子に座り、眉間にしわを寄せて横柄に腕と足を組んだ。

 「それで、新しいビジネスを始められるとのことですが、僕になんのご用ですか?」

 華鶴はその質問には答えずに、目を細めて息子を見つめ微かに口角を上げた。

 「あなた、ますますいい男になったわね。さぞかし女性たちにもてるんじゃないかしら?」

 航志朗はその言葉を無視して、「ご用件をお話いただけますか」と静かに言った。

 「宗嗣さんが十六年ぶりに人物画を描くことになったの。可愛いモデルさんが見つかってね。彼女、安寿さんって言うのよ」

 華鶴は相変わらずの美しい笑顔で息子に微笑んだ。

 「……人物画?」

 華鶴の意外な言葉に航志朗は目を見開いた。

 「そのモデルさんと出会ってからこの三か月間、熱心に彼女をデッサンしているわ。まるで恋に落ちたかのようにね。じきに本格的な作品に取りかかるでしょう。そこであなたにお願いしたいのは、その作品を顧客の元に直接届けること。海外在住の信頼の置ける特別な顧客にね。報酬は売却額の一割出すわ」

 「二割で」

 航志朗は即答した。

 華鶴は口に手を当てて品よく大笑いした。

 「さすがグローバルにご活躍の青年実業家さん、ご決断が早いわね。でも一割よ。これ以上は出せないわ」

 即座に航志朗は立ち上がり、「商談は成立ですね? それでは失礼します」と言って階段に向かった。その航志朗の後ろ姿に華鶴は気のない様子で言った。

 「そのモデルさん、今日、アトリエにいらっしゃっているわよ。ご興味がおありだったら、彼女に会いに行ったら? とても可愛らしい高校一年生のお嬢さんよ。あなたの好みかどうかはわからないけれど」

 華鶴は冷めたコーヒーに口をつけた。

 (高校一年生? ずいぶんと若いモデルなんだな)

 航志朗は無言で黒川画廊を後にした。

 午後のデッサンが始まってから、二時間ほどが過ぎた。窓の外からは心地よいそよ風が入って来る。安寿はカウチソファに横になったまま、まぶたが重くなっていた。画家はデッサンに集中していて、安寿が目を閉じたことにすぐには気がつかなかった。やがて岸は鉛筆を置き、柱時計を見て安寿にねぎらいの言葉をかけようとすると、安寿がぐっすり眠っていることに気づいた。

 岸はカウチソファに近づき、しゃがんで安寿の寝顔を見つめた。小さな子どものようにあどけない寝顔だ。その時、ついぞ感じたことのなかった温かい気持ちがとめどなくあふれてくるのを岸は感じた。そして、この少女を心から愛おしく思っていることを自覚した。岸はその手で安寿の髪をなでようとしたが、眉をひそめてすぐにその手を引いた。

 (私には彼女に触れる資格はない。ただでさえ、こうしていることが罪を重ねているというのに)

 そして、岸は安寿に掛けたベールを掛け直し、音を立てずにアトリエから出て行った。

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