今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 インターホンが鳴った。クルルが戻って来たのだ。安寿は玄関に急いでやって来た。先に玄関に来ていた航志朗が安寿を玄関の壁に押しつけて言った。

 「安寿、もう一回だけ……」

 航志朗は安寿をきつく抱きしめてキスした。

 玄関ドアを開けるとクルルと一人の男が並んで立っていた。大人しそうな印象の男は眉毛が下がっていて、見るからに温厚そうな人柄を醸し出している。

 安寿はその男を知っている。莉子の次兄の原田匠(はらだたくみ)だ。クルルも匠も困惑した表情を浮かべている。そこに莉子がいないことを安寿は怪訝に思った。

 「クルル、おかえりなさい。あの、匠さん、莉子ちゃんは?」

 航志朗は一度安寿を見てから不審そうに匠を見て思った。

 (匠さん?)

 匠は深いため息をついて言った。

 「安寿ちゃん、今、うち大変なことになっているんだ」

 安寿は顔を曇らせた。

 (……安寿ちゃん?)

 航志朗は不機嫌そうに匠を見た。

 莉子と大翔とクルルの三人は、莉子の家の玄関に入った。塩鮭を焼く香りがする。大翔は心臓が口から飛び出そうなくらい緊張したが、莉子の家が京都の実家に似ている感じがして懐かしい気持ちになった。クルルは本格的な和風建築を興味深そうに見回した。

 家の中に向かって莉子が大声で言った。

 「ただいま!」

 すぐに割烹着を着た莉子の祖母が出迎えた。小柄な祖母の割烹着の胸元は下がりぎみだがふっくらしている。三人を見て莉子の祖母は腰を抜かしそうになった。莉子の後ろには孫娘と同年代の大きな男と、朝日に照らされて透き通るような色の長い髪をした異国の美しい少女が立っている。

 早口で莉子は祖母に紹介した。

 「おばあちゃん、こちらアイスランドからいらっしゃった安寿ちゃんのお友だちのクルルちゃん。こっちは、私の高校の同級生の宇田川大翔くん」

 大翔は莉子の祖母に礼儀正しく深々と頭を下げた。大翔はおととし亡くなった大好きだった祖母の顔を思い出した。両親が家業に忙しかった大翔は「おばあちゃん子」だった。

 莉子の祖母は大翔をひと目見てたいそう気に入ってしまった。彼女の亡くなった夫は中肉中背だったが、本当は立派な体躯の男が好みだった。親同士が勝手に決めたお見合い結婚だったので選びようがなかった。

 頬を赤らめた莉子の祖母はすっかり白くなった髪を手で直しながらひそかに思った。

 (もしかして、莉子ちゃんのボーイフレンドかしら? それにしても、昨日は安寿ちゃんの家に泊るって言って出て行ったのに、男の子と帰ってくるなんて。あらまあ、莉子ちゃんたら)

 玄関奥の階段を眠たげな目をした莉子の母が下りて来て言った。

 「お義母さん、おはようございます」

 母は莉子たちに気づいた。

 「おかえりなさい、莉子。あら、そちらはお友だち? あなたたち、朝ごはんは食べたの?」と大あくびが出かかった口を手で押さえながら、莉子の母は鷹揚な様子で言った。

 冷や汗を大量にかきながら大翔は原田家に上がり、莉子の後ろについて行って台所に入った。台所のテーブルには、おにぎりがたくさん並べてあった。早朝から餅菓子や団子などの朝生(あさなま)作りをしている莉子の父と次兄と職人たちの朝食だ。祖母は大翔とクルルを椅子に座らせておにぎりを勧めた。クルルはお腹が空いていなかったので断った。大翔はおにぎり五個をあっという間に平らげた。莉子の祖母と母は顔を見合わせて微笑んだ。莉子の母もまた大柄で育ちの良さそうな大翔に好感を持った。それから、柱時計を見た祖母はおにぎりを大皿にのせて店の厨房に持って行った。

 莉子の母はおにぎりをつまみながら平然と大翔に訊いた。

 「あなた、莉子の彼氏?」

 大翔は真っ赤になってうつむいた。あわてて莉子が言った。

 「ママ! 私たち……」

 大翔がぎょっとした顔で莉子を見た。

 「ずっと、仲良しの友だちなの。安寿ちゃんと蒼くんと四人で」

 莉子の母は残念そうに言った。

 「あら、そうなの」

 莉子は大翔とクルルを自分の部屋に連れて行った。クルルは中庭に面した日当たりのよい縁側に腰を下ろして庭を眺めた。ミモザ以外は初めて見る珍しい可憐な花々が咲いている。

 正座をした大翔はこぶしを握りしめて胸をどきどきさせていた。ふと見上げると桐箪笥の上に長方形の木製フォトフレームが置いてあるのに気がついた。大翔は立ち上がってそれを見た。七五三の着物姿の莉子の写真が二枚収められていた。三歳の時と七歳の時の写真だ。どちらも華やかな着物を着て可愛らしい笑顔で写っている。思わず大翔は微笑んだ。

 (莉子と僕の子どもが女の子だったら、きっと彼女に似て、ものすごく可愛いんだろうな)

 莉子は紅茶を淹れて部屋に戻って来た。我に返った大翔は顔を赤らめた。

 (僕は何を考えているんだ。まだ彼女のご両親にきちんと話をしていないのに)

 時計を見て莉子が言った。

 「そろそろ上生菓子作りが始まる時間なの。クルルちゃん、店の厨房を見に行かない?」

 クルルはうなずいた。大翔も腰を浮かせたが、莉子は大翔にここで待っているように言った。

 厨房の外の廊下で、莉子はクルルを父と次兄に会わせた。原田は昨日クルルに会っている。いそいそと原田は厨房の奥から白衣を持って来て莉子に手渡した。莉子はクルルに白衣を着せて、クルルの長い髪を結んで白い帽子を被せた。そして、口をだらしなく開いて呆然とその場に立ち尽くしている次兄に半ば強引に通訳を頼んだ。

 莉子の次兄は国立大学の外国語学部で学んでいる。この春に次兄は大学三年生になる。長兄は経済学部を卒業して銀行員になったが、次兄は大学に通いながら父の厨房に見習いとして入っている。妹の目から見て、まったくもって頼りない男だが、次兄なりに和菓子のことをクルルに紹介してくれるだろう。莉子は父と次兄にクルルを任せて部屋に戻った。

 大翔はぼんやりと中庭を眺めていた。暖かな春の陽ざしが降り注ぎ、思わず眠気を感じてしまう。そういえば、昨晩は航志朗のマンションのソファで莉子と寄り添って数時間眠っただけだった。

 (昨日は僕にとって忘れられない夜になったな。今日も一生忘れられない一日になりそうだけど)

 よく手入れされた庭には春の花がところどころに咲いている。大翔は明るい黄色のふわふわとしたミモザを見て思った。

 (あの花、莉子みたいだ。いつも可愛らしく笑っていて、見ているだけで元気をもらえる彼女のような)

 ふと横を見上げると、莉子が微笑んで立っていた。莉子は大翔を見下ろして言った。

 「大翔くん、ミモザの花言葉って知ってる?」

 もちろん大翔は首を振った。

 「『秘密の恋』よ」

 莉子はかがんで大翔に軽くキスした。大翔は顔を赤らめた。莉子は大翔の膝の上に乗って、大翔の首に手を回して言った。

 「今、安寿ちゃんたちがしていることを、私たちもしたいな」

 ふたりはきつく抱き合って唇を重ねた。

 やがて、大翔はひたむきなまなざしで莉子に言った。

 「莉子、僕はこれから君のご家族にきちんと伝えるよ。将来、君と結婚したいって」

 莉子は大翔の胸に顔をぴったりとつけながらうなずいた。

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