今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 困惑した表情で匠は安寿に言った。

 「いきなり大翔くんが莉子と結婚したいって、うちの両親に言い出してさ。父はかんかんに怒って、『おまえは、うちの大事な娘を妊娠させたんじゃないのか!』って、大翔くんを大声で怒鳴りつけたんだ。莉子はわんわん大泣きしちゃってさ……」

 匠は顔をしかめて深いため息をついた。クルルは唇を曲げて匠を見上げた。

 (懐かしいシチュエーションだな……)

 思わず航志朗は苦笑いした。

 ずっと黙って匠の話を聞いていた安寿が突然言い出した。

 「匠さん、私を莉子ちゃんのところに連れて行ってください! 莉子ちゃんと大翔くんの味方になりに行きたいんです」

 航志朗は驚いて安寿を見た。すぐに安寿はワンピースの上にカーディガンを羽織り、黒革のショルダーバッグを肩に掛けた。

 安寿はクルルの両手を強く握って言った。

 「私、リコちゃんのところに行って来るね。クルル、本当にありがとう。またいつか会おうね。約束よ!」

 クルルはしっかりと安寿にうなずいてから、片方の眉毛を吊り上げて航志朗を見た。

 安寿は航志朗に早口で言った。

 「航志朗さん、いってらっしゃい。どうかお気をつけて」

 航志朗は、匠に「原田さん、申しわけありませんが少々お待ちください」と言って、安寿の手を引っぱって二階に連れて行った。ベッドルームのドアを後ろ手で閉じるなり、航志朗は安寿を強く抱きしめながら言った。

 「安寿、頼むから俺だけを待っていてくれ。絶対に他の男には指一本触れさせるなよ」

 安寿は航志朗の腕の中でうなずいた。ふたりはきつく抱き合って強く唇を重ねた。

 安寿はベッドルームから出て行った。一人残された航志朗はその場にずるずると座り込んで苦しそうに頭を抱えた。

 午後十時すぎ、安寿は莉子と一緒に匠が運転する車に乗って航志朗のマンションに戻って来た。両目を真っ赤に泣きはらした莉子は安寿の手を固く握って言った。

 「安寿ちゃん、ありがとう。私たちの味方になってくれて。本当に本当にありがとう」

 匠も安寿に頭を下げて礼を言った。

 「安寿ちゃんの説得のおかげで、あの頑固な父が納得して助かったよ。本当にありがとう」

 安寿は車を降りて微笑みながら莉子と匠に手を振った。

 今日、莉子と大翔は結婚の約束をした。大翔の両親にも伝えて、五月に原田家と宇田川家の両家は結納を交わすことまで決まった。

 安寿は夜空を見上げて思った。
 
 (本当に、突然、何かがやって来る。そして、いつしかそれは去って行く)

 航志朗のマンションのドアを合鍵で開けて中に入ると、リビングルームのスタンドライトが灯っていた。たぶん航志朗がつけたままにしておいてくれたのだろう。

 昨日の夜はあんなににぎやかだった部屋の中がしんとしている。一面に敷かれていた水色のビニールシートははがされて、部屋のすみに折りたたんで置いてあった。安寿は莉子の家で夕食をごちそうになってきていた。バスタブに湯を張って安寿は風呂に入った。

 (航志朗さんとクルルが乗った飛行機は、もう空の上かな)

 うつらうつらしながらゆっくりとバスタブに浸かってから、安寿は二階のベッドルームに行った。真っ暗な部屋の窓辺にはレースのカーテンから月明かりが柔らかく差し込んでいる。安寿は航志朗のベッドにもぐりこんだ。航志朗がこの一週間横になっていた場所に手を置いて彼の存在を感じとる。そこは、ほんのりと温かい感じがする。毛布に顔を埋めると航志朗の匂いがして、安寿は胸がしめつけられた。

 安寿は枕元に何かが置いてあるのに気づいた。起き上がって安寿はそれを手に取った。見覚えのある紙だ。安寿が牛の絵を描いた航志朗の黒革の手帳の一ページだ。何か書いてある。安寿は月の光にその紙を照らした。

 「安寿、心から君を愛している 航志朗」と英語でメッセージが書いてあるのが見えた。優美な筆記体だ。思わずその文字を指でそっとなぞった。その右下にはユーモラスな二頭の牛のイラストが描かれている。安寿は目を凝らした。牛たちはキスしている。にっこりと安寿は微笑んだ。そして、毛布を抱きしめながら安寿は目を閉じた。

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