今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第2節

 六月半ばに安寿が待ちに待った日がやって来た。北海道にいる叔母の恵が無事に出産したのだ。

 恵は生まれたばかりの子どもを胸に抱きながら、すぐに電話をしてきた。母になった恵は興奮ぎみに大声を出して報告した。

 『安寿、たった今、やっと赤ちゃんが生まれたの! 男の子で優ちゃんにそっくりなのよ!』

 「恵ちゃん、おめでとう! 私、とても、とても、嬉しい……」

 安寿は大粒の涙をこぼした。昨年の春にはまったく思いもよらなかった奇跡のような出来事だ。

 (恵ちゃんが、とうとうママになったんだ……)

 声をあげて安寿は泣いた。安寿は嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。そして、何も考えずに岸家の自室からアイスランドの航志朗に電話をしてしまった。

 その時、晴れ渡ったアイスランドは午後二時だった。その日はクルルの美術館のオープニングセレモニーが開催されていた。

 美術館のドーム状のエントランスでは、安寿たちが制作した百五十頭の牛たちに天井から見守られながら、和やかにティーパーティーが開かれていた。招待客たちに振舞われた菓子は、クルルが莉子の次兄の匠を通して『菓匠はらだ』に特別注文した小豆あんと白あんが入った二種類の最中だ。最中には牛の絵の焼印が押してある。この焼印は安寿がデザインした。また、季節の草花をかたどった淡い色合いのカラフルな干菓子も並べられた。この干菓子は匠がつくったものだ。

 実はこの日に合わせて、和菓子とともに匠はアイスランドにやって来ていた。航志朗はコーヒーを飲みながら最中を口に運んだ。その焼印の出来に航志朗は感心した。東京の台東区にある焼印製作所に、莉子が安寿と一緒に出向いて注文したものだと匠から聞いた。

 繊細な和菓子に興味津々の招待客たちに、流暢な英語で説明する匠を航志朗は感心しながら見つめた。セレモニーだというのに相変わらずのジーンズ姿のクルルは、匠の隣で楽しそうに笑っている。クルルと匠は互いに見つめ合って微笑んだ。

 (……ん?)

 航志朗は不可解に思った。なんだかクルルが年相応のとびきり可愛らしい女の子に見える。航志朗はすぐに思い当たった。

 (なるほど、そういうことか)

 そして、クルルと匠を見て、航志朗は腕を組んでにやにやと笑った。

 航志朗のジャケットの内ポケットに入っているスマートフォンが鳴った。画面を見なくてもすぐにわかる。安寿からだ。

 航志朗は美術館の外に小走りで出て行きながら、胸を弾ませて電話に出た。航志朗の目の前にはこげ茶色の山々が連なり、あちこちに噴煙があがっているのが見える。この土地特有の地球の原風景ともいえるランドスケープが広がっている。

 「安寿、今、クルルの美術館の……」と機嫌よく言いかけた航志朗だったが、安寿が電話の向こうでしゃくりあげているのに気づいた。

 (ま、まさか、皓貴さんに……)

 航志朗は真っ青になって胸の鼓動を早めながら怒鳴った。

 「安寿、どうしたんだ!」

 『こ、航志朗さん……』

 安寿は泣き声だ。

 航志朗は頭をかきむしって、また怒鳴った。

 「安寿、いったいどうしたんだ!」

 『……生まれました』

 安寿の微かな声は震えている。

 「生まれた? 何が」

 『……いとこ、です』

 航志朗の脳裏には、従兄の黒川皓貴の顔が浮かんだ。航志朗は顔を思いきりしかめてまた怒鳴った。

 「なんだよ、いとこって!」

 話がなかなか通じずに安寿は頭にきた。

 (もう、こんな時にどうして何回も怒鳴るの!)

 安寿は大声で訴えるように叫んだ。

 『恵ちゃんと優仁さんの赤ちゃんが生まれたんです!』

 一気に安堵した航志朗はその場にしゃがみ込んだ。

 「そうか。……それはよかった。本当によかったな、安寿」

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