今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第4節

 翌朝になって目を開けた航志朗は、自分の腕の中で安寿がぐっすりと眠っていることに気づいた。航志朗は心の底から嬉しくなって、安寿の黒髪に鼻を擦りつけた。身体じゅうを奮い立たせるいい匂いがする。シャンプーの匂いではない。安寿自身の匂いだ。だが、航志朗は安寿を見つめると、胸がしめつけられるほどの悲哀を感じた。

 (まだ、俺は、すべての彼女の匂いを知らない……)

 うっすらと安寿は目を開けて、航志朗を見上げた。ふたりは見つめ合った。どちらからともなく唇を重ねて、安寿と航志朗はきつく抱き合った。安寿は身体の奥が熱くなってきて、どうしようもなく航志朗の身体にしがみついてしまう。呼吸を荒げながら、航志朗はなおいっそう安寿をかき抱く。すでに安寿は気づいている。全身で航志朗と抱き合うと、彼の身体の一部が固くなって自分の身体に当たる。でも、安寿はどうしたらいいのかわからない。

 (きっと、心の準備ができていない私のために、ずっと彼は我慢してくれているんだ)
 
 安寿を抱きしめながら、航志朗は枕元に手を伸ばしてスマートフォンの画面を見た。

 「午前十時か」

 「もうそんな時間なんですね。航志朗さん、そろそろ起きましょうか?」

 「そうだな」

 安寿は起き上がると障子と二重のガラス窓を開けて、少し手間取りながらも重いシャッターを上げた。

 急にまぶしい光が部屋の中に差し込んできた。外には広大な田園風景が広がっている。それは映画のスクリーンを見ているかのように現実味がない。後ろから安寿を抱きしめながら航志朗が言った。

 「あとで一緒に散歩しようか」

 安寿は航志朗を見上げて笑顔になってうなずいた。

 布団をたたんで着替えてから母屋に行くと、リビングルームのソファに座った恵が敬仁に授乳をしていた。それは中世の宗教画のような美しい光景だった。それに気づいて安寿は驚いた。恵の胸がぱんぱんに張っている。頬を赤らめた航志朗があわてて目をそらした。やがて、敬仁は満ち足りた顔をして眠ってしまった。安寿は敬仁の顔をのぞき込んで微笑んだ。

 恵がブラウスのボタンを留めて言った。

 「朝食にお義母さんがつくったおにぎりがあるから遠慮なく食べてね。それに、台所、自由に使ってもらって構わないから」

 「ありがとう、恵ちゃん。それから、洗濯機も貸してもらえるかな?」

 恵は敬仁の頭をなでながらうなずいた。

 辺りを見回してから安寿が尋ねた。

 「優仁さんと希世子さんは?」

 呆れ返ったように恵が言った。

 「今、何時だと思っているの、とっくに畑に行ったわよ」

 安寿と航志朗は顔を見合わせて肩をすくめた。

 洗濯機に二人分の洗濯物を入れてスタートボタンを押してから、安寿と航志朗は希世子が握った鮭と塩昆布のおにぎりを食べた。

 ふたりは離れの部屋に戻った。座卓の上にノートパソコンとファイルを広げて航志朗は仕事をし始めた。すぐに安寿の目の前でスマートフォンを繰ってどこかに電話をかけた。

 もちろん航志朗は電話の相手と英語で会話をしている。ソウル郊外にある美術館が全面リニューアルオープンするらしい。安寿は大学で第一外国語に英語を、第二外国語にフランス語を選択した。高校生の時よりもずいぶんと英会話が聞き取れるようになってきた。

 安寿は洗濯物を干してから、台所に行って航志朗のためにコーヒーを淹れた。台所では恵が眠った敬仁を抱きながら、立ったままで残ったおにぎりをほおばっていた。神経質で行儀作法にとてもうるさかったかつての叔母はもういない。母になって大らかにたくましくなった恵がそこにいた。

 恵は興奮ぎみで安寿に熱く語った。

 「赤ちゃんにおっぱいあげているとね、お腹が空いて空いて仕方がなくなるのよ。自分でも気持ち悪いくらい、一日じゅう食欲があるの。そうそう、妊娠中に十二キロ太った体重がみるみるうちに元に戻ったのよ。安寿、母乳ダイエット、おすすめよ!」

 そういえば、二人で暮らしていた時よりも、恵の声は少し低くなってボリュームが大きくなった。

 (おすすめって、言われても……)

 唇を軽くへの字に曲げて安寿はうつむいた。

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