今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 離れの部屋にコーヒーを運んで座卓に置くと、礼を言ってから航志朗は熱いまなざしで安寿の手を握ってくる。そして、安寿を抱き寄せようとするが、けたたましくスマートフォンが鳴った。小さなため息をついてから、また航志朗は英語で話し始めた。その様子を見た安寿はスーツケースの中からスケッチブックとペンケースを取り出して、静かに部屋を出て行った。

 (航志朗さんと一緒にいたいけど、私がここにいたら仕事の邪魔になってしまう……)

 スニーカーを履いて外に出た安寿は、白樺の並木道を歩き出した。安寿はスキッパーシャツの下に珍しくジーンズを履いている。クルルのスタイルを見てから初めて買い求めた。

 白樺越しに見える開けた平野は、パッチワークのように様ざまな色をした畑が織り重なっている。遠くには青々とした山脈が見える。並木道の中央に立つと消失点が見えた。改めてこの土地の広大さを感じる。安寿は白樺の木陰に座って、田園風景をスケッチし始めた。相変わらず遠近法は得意ではない。でも、誰が見てもきれいに見える絵を描く描画のテクニックなど今は必要ない。ただ、自分の目で見た光景を描くだけだ。安寿は集中して鉛筆を紙の上に走らせた。

 そこへ昼食をとるために渡辺と希世子が畑の畦道を歩いて帰って来た。安寿はふたりに気がつかない。作業着を着ている渡辺は遠目に安寿を見つけた。そして、誰にともなくつぶやいた。

 「安寿ちゃんて、子どもの頃から本当に我を忘れたように絵を描くんだよね。美の源泉にトリップできる特別な力を持っているんだな」

 希世子は何も言わずに微笑んだ。渡辺と希世子は安寿をしばらく見守ってから、そっと自宅に戻って行った。

 母屋から鰹節を煮出す出汁の香りがして来た。航志朗は離れの部屋から出て来て安寿を探したが見つからない。

 (また、どこへ行ったんだ。ちょっと目を離すと、これだよな……)

 台所で恵とうどんを茹でていた渡辺が航志朗に気づいて言った。

 「安寿ちゃんなら、外の並木道でスケッチをしていたよ。もうすぐ昼食ができるから、航志朗くん、彼女を呼んで来てくれないか」

 渡辺の言葉にうなずいた航志朗は、外へ飛び出して行った。息を切らせて並木道に着くと、すぐに白樺の木々の間に安寿を見つけた。また航志朗は走り出して安寿のもとに向かった。

 身体を前のめりにして、安寿は目の前の風景を呑み込むようにして絵を描いていた。航志朗がやって来たことに、まったく安寿は気づかない。航志朗は安寿の背中を見つめると、急に安寿が愛おしくてたまらなくなった。いきなり航志朗は後ろから安寿を力を込めて抱きしめた。両肩を跳ね上がらせて、安寿は握っていた鉛筆を落とした。

 「航志朗さん!」

 鉛筆を拾って座った航志朗は、安寿が描いている風景画をのぞき込んで言った。

 「うん。のびのびとしたいい絵だ。着色はしないのか」

 「絵具を持って来ていないんです」

 「そうか。安寿、俺も一緒に描いていいかな?」

 安寿は嬉しそうにうなずいた。航志朗は安寿を後ろから抱きしめながら鉛筆を持って、安寿が描いた草むらに滑らかな筆致で男女の絵を描き加えた。絵の中の二人は抱き合ってキスしている。そして、どう見ても安寿と航志朗の姿だ。それに気づいた安寿は顔を赤らめた。安寿の顔をのぞき込んで愉しそうに航志朗は笑ってから、すぐに描いた絵を練り消しゴムで消してしまった。

 「あっ、どうして消してしまうんですか。せっかく描いたのに」

 安寿は不満そうに口をとがらせた。

 目を細めて航志朗が言った。

 「これから、ここで、こうするから……」 

 安寿の顎を引き寄せて、航志朗は安寿にキスした。そして、そのまま強く抱きしめる。おのずと安寿は航志朗に身を任せるが、安寿の理性はそれに抵抗する。

 「もうっ、こんなところで! 誰かに見られたら、どうするんですか」

 恥ずかしさにいたたまれなくなった安寿は早口で叫んだ。

 目を閉じた航志朗は、何も言わずにまた唇を押しつけてくる。ふと安寿は航志朗の顔色が青ざめているように感じた。胸が騒めいた安寿は少し顔をしかめた。

 (なんだか、航志朗さん、……疲れているみたい)

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