今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 早々に仕事を終わらせた航志朗は、安寿を誘って散歩に出た。ふたりは手をつないでゆっくりと土を踏みしめながら歩いた。安寿も航志朗も普段の生活で土の上を歩くことはそうそうない。

 午後の日差しに照らされた白樺が長く影を落とす並木道をふたりは奥へと進んで行った。誰ともすれ違わない。航志朗はいったんつないだ手を離し、安寿の肩に腕を回して抱き寄せた。安寿は航志朗に寄りかかると、自分の胸の鼓動が強く波打つのを感じた。

 目の先にススキが生い茂る野原を見つけた。ふたりが隠れるくらいの背丈があるススキが群生している。ほぼ南西から差す太陽の光を反射して、ススキの花穂(かすい)が白く時には銀色に輝いている。航志朗は安寿を連れてススキの野原に分け入って行った。

 冷涼な風が一面のススキ野原を吹き渡り、花穂が海原にさざめく波のように揺れた。そして、その風は安寿の長い黒髪もたなびかせる。航志朗は安寿を見つめた。航志朗の琥珀色の瞳の奥が激しくまたたく。ふたりの視界には、はてしなく広がる空とススキと互いの姿しか見えない。

 ふいに航志朗は安寿を抱きしめた。しばらくふたりはそのまま抱き合っていた。

 航志朗の腕の中で安寿はさわさわとススキが風に揺れる音にずっと耳をすませていた。やがて、日が傾いてきて、ススキ野原を黄金色に染めていった。安寿は目を見張った。この世の最後の光を見ているようだ。そして、安寿は刹那的な想いに駆られて、だんだん胸を高ぶらせていった。

 突然、航志朗の腕の中から抜け出して、安寿は走り出した。走り出さずにはいられなかったのだ。安寿はススキ野原に突っ込んで行った。ススキにさえぎられて、航志朗の視界からいきなり安寿の姿が消えた。航志朗は一人で取り残されてしまった。急に安寿を永遠に失ってしまったかのような恐怖が襲いかかってくる。あせった航志朗は大声で叫んだ。

 「安寿!」

 航志朗はススキをかき分けて安寿の後を追った。安寿の姿は見つからない。また航志朗は悲痛な声を出して彼女の名前を叫んだ。

 「安寿!」

 その時、足元から小さな声が聞こえた。

 「……ここですよ、航志朗さん」

 かくれんぼをしているようにススキの下にしゃがんだ安寿は航志朗を見上げて、小さな女の子のようにあどけなく笑った。

 「安寿……」

 安堵したのもつかの間、いきなり航志朗の全身が激しい衝動に貫かれた。航志朗は安寿を力いっぱい抱きしめて地面に押し倒した。その瞬間、右腕に鋭い痛みが走った安寿は顔をゆがめた。そのまま航志朗は安寿を地面に押しつけながら、安寿を見下ろして叫んだ。

 「安寿、君が欲しい。俺は君が欲しいんだ!」

 仰向けになった安寿は、右腕に引っかき傷ができて血がにじみ出ていることに気づいた。だが、それに構わず安寿は航志朗に思いきり抱きついた。それが答えだと言うかのように。

 ふたりは熱く口づけし合った。互いの瞳を見つめて、また唇を重ねる。安寿は航志朗に身体じゅうを触られて、呼吸が荒くなってきた。航志朗は安寿が穿いているジーンズのフロントボタンに手をかけた。

 その時、血の匂いに気づいて、航志朗は目を見開いた。安寿の白いシャツの袖に血がついている。航志朗はその生なましい動きを止めて言った。

 「安寿、どうしたんだ、その血……」

 航志朗の声が震えた。

 「大丈夫です。ちょっと擦っただけです」

 「血が出ているんだ、大丈夫じゃないだろ!」

 航志朗は安寿の右の手首を強く握った。赤く血がついて破れた袖をめくると、安寿の腕に太い一本の引っかき傷ができている。航志朗は手のひらで顔を覆って、苦しそうにうなだれた。

 (俺は、また彼女を傷つけた……)

 安寿を抱き起して、航志朗はきつく安寿を抱きしめて言った。

 「ごめん、……ごめん、安寿」

 安寿はあまりにも航志朗が落ち込んでいる姿を見て、たまらなく胸が苦しくなった。落ち着いた声だが早口になって安寿は言った。

 「航志朗さんが傷つけたんじゃないです。自分でけがしたんですよ。だから本当に気にしないでください」

 「いや、俺がまた君を傷つけたんだ」

 首を振って安寿は必死の想いで言った。

 「違います! 航志朗さんは、私を一度も傷つけていません」

 「……ありがとう、安寿」

 航志朗は安寿を注意深く立ち上がらせて言った。

 「すぐに帰ろう。傷の手当てをしないと」

 安寿と航志朗が白樺の並木道に戻ろうとすると、足元に薄汚れたサッカーボールが転がっていた。安寿はなんとなく気になって、そのサッカーボールを拾い上げた。ボールには、黒いマジックで「ほんまゆうき」と名前が大きく書かれてあった。拙いひらがなだ。

 「ゆ」の文字を見て、安寿は子どもの頃の出来事をふと思い出した。そして、隣でうなだれて黙り込んでいる航志朗に、わざと明るい口調で言った。

 「航志朗さん。私ね、子どもの頃、なかなか自分の名前がひらがなで書けなかったんですよ。ほら、『あ』と『ゆ』って、ちょっと難しいでしょう。『ん』と『じ』は、すぐに書けるようになったんですけどね。だから、その頃の私が書く自分の名前は、『んじ』だったんです」

 「『んじ』か……」

 くすっと航志朗が笑った。航志朗の表情がゆるんで安寿はほっとした。

 サッカーボールを胸に抱いた安寿は、昨年の春まで恵と住んでいた団地でひょんなことから親しくなった男の子のことを懐かしく思い出した。

 (颯太くん、元気かな。そういえば、将来サッカー選手になりたいって言っていたっけ)

 団地を出て行く朝、颯太は目に涙をいっぱいにためて見送ってくれた。

 安寿はそのサッカーボールを持ち帰った。

 渡辺の家に帰ると安寿は希世子に傷の手当てをしてもらった。たいした傷ではないが、希世子は傷口にガーゼを当てて手慣れた様子で包帯を巻いた。

 その夜、安寿と航志朗はそれぞれの布団に入った。布団は少し離れて敷かれている。ずっと航志朗は押し黙ったままだった。航志朗は食欲がなかったらしく、夕食をあまり食べずに恵に心配された。

 しばらく時間が経っても、ふたりは寝つけない。互いの気配でわかる。とうとう安寿は自分を抑えられなくなって、航志朗に言った。

 「……航志朗さん」

 「ん?」

 「そちらに行ってもいいですか?」

 「……うん」

 安寿は航志朗の布団の中にそっと入って、航志朗の右腕にきつくしがみついた。航志朗はゆっくりと身体を寄せて腕の中に安寿を抱きしめた。安寿はどきどきしてきた。航志朗は安寿の額にキスして髪をなでながら言った。

 「安寿、傷は痛くないのか?」

 「ぜんぜん痛くないです」

 「それはよかった。安寿、本当にすまなかった」

 安寿の額に航志朗の顎が触れている。そこはひんやりと冷たい。その冷たさは安寿の心に真っ黒な影を落とした。安寿は両腕を伸ばして航志朗の身体に抱きついて目を閉じた。航志朗の匂いと温もりを間近に感じながら、心の底から安寿は思った。

 (いつも私は彼に守られている。私も彼を守りたい)


 


 

 













 
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