今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 次の日の朝早くから目覚めた安寿は、白いリネンのバンドカラーシャツとグレージーンズに着替えて、スケッチブックを抱えて一人で離れの部屋を出て行った。まだ航志朗は眠っていた。廊下の窓の外を見ると、広い庭で恵が大量の洗濯物を干しているのが見えた。

 安寿はシャツの袖をロールアップして、リビングルームに敷かれた座布団の上に斜めに寝かされた敬仁のスケッチをし始めた。敬仁は朝の光に照らされて柔らかく輝いている。

 安寿は敬仁の小さな手の指先にのった小さな小さな爪を見て、本当によくできていると心から感心してしまった。むちむちした敬仁の両足は力強く何かを蹴っている。その太もものしわの寄り具合に思わず安寿の顔はほころんでしまう。そして、心の奥底まで見透かされそうな敬仁の無垢な瞳を見つめる。ずっと見ていても、まったく見飽きない。敬仁は安寿の目を見てにっこりと微笑んだ。その瞬間、安寿の胸がきゅんと音を立てた。

 やがて、やっと起きた航志朗が不機嫌そうな表情を浮かべてリビングルームに入って来た。安寿は先回りして航志朗に言った。

 「航志朗さん、『俺より先に、布団(・・)から出るな』とは、言っていませんよね?」

 安寿は可愛らしく首を傾けて航志朗の顔を上目遣いでのぞき込んだ。完敗した航志朗は何も言い返せなくて黙り込んだ。

 (安寿、もう俺は本当に我慢できない)

 その時、勢いよく両手両足をばたばたさせながら敬仁が声を上げて笑った。もしかしたら、ふたりは小さな赤ちゃんに笑われたのかもしれない。

 陽の光に照らされた安寿も航志朗に向かってありのままに笑った。思わず航志朗は胸を高鳴らせた。安寿の後ろにしゃがんでその肩に顎をのせて、航志朗は安寿のスケッチと敬仁を交互に見た。そして、ぼそっと航志朗がつぶやいた。

 「安寿。赤ちゃんって、可愛いな」

 安寿はスケッチを続けながらうなずいた。

 「本当にそうですね」

 航志朗は安寿の耳元に口を寄せて小声でささやいた。

 「俺たちも、……つくろうか」

 胸がどきっとして、安寿は手を止めて顔を赤らめた。

 「えっ?」

 航志朗は苦笑いして言った。

 「……朝食。久しぶりに、君がつくったフレンチトーストが食べたいな」

 「あ、はい。今、つくりますね」

 すぐに安寿は立ち上がってスケッチブックを下に置いて台所に向かった。

 肩を落とした航志朗はご機嫌な敬仁に向かって言った。

 「君なら、俺のこの切ない気持ち、わかってくれるよな?」

 敬仁はじっと航志朗を見つめた。そして、「うー」と唸って固まった。

 「ん?」

 臭くはないが、酸っぱい匂いを感じる。

 「あっ、敬仁くん、……したのか!」

 あわてて航志朗は恵を呼びに行った。

 午前中、安寿はずっと敬仁のスケッチをしていた。リビングルームのソファの上には恵が横になって気持ちよさそうに眠っている。母になったその日から三か月近く、恵は二時間以上連続して眠っていないのだ。

 航志朗は離れの部屋で一人で集中して仕事をしていた。今日の仕事を早く終わらせて、安寿とゆっくり過ごすためだ。

 正午すぎに渡辺が自宅に戻って来た。渡辺と一緒に一人の若い男がリビングルームに入って来た。渡辺は安寿のスケッチブックをのぞき込んで言った。

 「いい! 安寿ちゃんの絵、素晴らしいよ! この敬仁の絵、僕に売ってもらえないかな」

 さっと安寿は顔を赤らめた。渡辺は退職したとはいえ、美術評論のプロフェッショナルなのだ。

 「とんでもないです! 優仁さんに気に入っていただけたのなら、どれでもどうぞ受け取ってください」

 若い男が安寿に会釈した。三十歳前後のがっしりとした身体つきの男だ。よく日焼けしている。渡辺がそれぞれに紹介した。

 「安寿ちゃん、彼はうちのスタッフの土師大地(ともろだいち)くん。土師くん、彼女が恵の姪の安寿ちゃん。美大生なんだ」

 あわてて立ち上がって安寿は土師に深々とお辞儀をした。土師は心なしか頬を赤らめた。それに気づいた渡辺が冷静に付け加えた。

 「あ、土師くん、いちおう先に言っておくけど、彼女、結婚しているんだ。彼女の夫も一緒に来ている」

 「あ、そうですか」

 そうぶっきらぼうに言うと、土師は下を向いた。

 そこへ希世子が顔を出して言った。

 「お昼ごはんの用意ができたわよ。安寿ちゃん、航志朗さんを呼んで来てね」

 「はい。希世子さん、ありがとうございます」

 安寿は立ち上がって離れの部屋に向かった。

 ダイニングテーブルの上にはたくさんのいなり寿司が並んでいる。中には具だくさんのやや甘めの炊き込みご飯が詰められていた。蒸したジャガイモも置いてある。安寿は五人分のほうじ茶を入れた。まだ恵と敬仁はぐっすりと眠っている。

 先程からずっと土師は安寿と航志朗の姿を呆然と眺めていた。ふたりのいなり寿司を持つ左手の薬指には結婚指輪が光っている。隣同士で座ったふたりは互いに微笑み合って寄り添い、いかにも幸せそうだ。そして、柔らかく温かい光に包まれているようにも見える。胸の内で土師は思った。

 (まさに、正真正銘の「お似合いカップル」って感じだな)

 昼食を食べ終わって手を洗った渡辺は、安寿のスケッチブックの絵を一枚一枚丁寧に見ていた。土師も渡辺の隣からのぞき込んだ。土師は美術の「び」の字も興味がない。学生時代の美術の時間は適当にやり過ごした。

 だが、そのスケッチブックの絵には不思議と心惹かれるものがあった。農業大学の大学院で土壌肥料学を研究していた理系の土師は、そのあいまいな自分の感覚を分析した。しかし、どうしても言語に落とせない。安寿の一枚の風景画を見て、やっと土師は思い至った。

 (そうだ。完全な静止画のはずなのに、空気の流れを感じるんだ。この絵のなかには風が吹いている)

 その風景画は、昨日安寿が描いていた白樺の並木道から見える田園風景だ。土師はうつむいてほうじ茶を啜っている安寿の顔を盗み見た。

 (不思議なひとだ。今にも目に見えない翼を広げて、どこか遠くに飛び立って行ってしまいそうな気配がする。彼女の夫、内心は気が気ではないんだろうな)

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