今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第6節

 その時、オルガ・ブラウンフィールドは、アイスランド・レイキャビク郊外に新設された美術館の前に立っていた。風向きが変わって、硫黄の匂いが漂ってきた。胸がむかむかしてきて、思いきりオルガは表情を歪めた。

 アイスランド時間は午後五時。閉館まであと一時間だ。オルガがロンドンからレイキャビクに到着したのは、昨日の午後だった。ここに来る決心がなかなかつかなくて、ずっとチェックインしたホテルの部屋にこもっていた。黒いトレンチコートのポケットに両手を突っ込んで、オルガはその美術館を見上げた。

 (ここが、彼が設立に関わった美術館……)

 オルガは二十五年前にモスクワで生まれた。父はイギリス人でオーボエ奏者だ。当時、父はロシアのオーケストラに籍を置いていて、ロシア人の母と恋に落ちてオルガが生まれた。

 母はピアノ教師だった。音楽一家に育った母は、当然のようにプロのピアニストを目指していたが叶わなかった。ある日、ピアノを教えている子どもたちを連れて、母が父の所属するオーケストラのリハーサルを見学しに行った時にふたりは出会った。

 当初は熱烈に愛し合っていたが、オルガが七歳になった時に両親は離婚した。母が教え子のシングルファザーと不倫関係になったのだ。モスクワでの思い出は両親が言い争っている光景しか覚えていない。やがて、母はその男の元へと去った。七歳の幼いオルガを捨てて。

 傷心の父はモスクワのオーケストラを辞し、オルガを連れて故国イギリスに帰国した。その一年後、父は再婚した。父より三歳年上の新しい母は心優しい人で、今でも実の娘としてオルガをとても可愛がってくれている。継母は国立美術館の資料室で司書をしている。イギリスにやって来た時に英語がまったく話せなかったオルガのために、継母は根気強く毎日英語の絵本を読んで聞かせた。その甲斐あって、オルガは英語を自在に話せるようになった。よくふたりで読んでいた絵本のアーディゾーニの挿絵にオルガは夢中になった。後に生まれた弟たちとも仲がよい。彼らは聡明で美しい姉を心から慕ってくれている。

 オルガはモスクワにいた時に、実の母からピアノの手ほどきを受けていた。おそらくオルガはピアノの才能がなかったのだ。母はよくピアノを教えながら苛立っていた。怖い顔をした母がピアノをコツコツと爪を立てて叩く音と真っ赤なマニキュアを塗ったその指先が忘れられない。大人になった今でも夢に見る。十八年間会っていない母の顔はおぼろげだが、なぜか母の指だけはありありと覚えている。ロンドンに来てからオルガは一度もピアノを触っていない。

 オルガは成績優秀で高校までずっと首席だった。当然、オルガはイギリスの最高位の大学に進学した。大学では芸術学部で近現代スラヴ史とその芸術を専攻した。

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