今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 車の中の安寿と航志朗の間には、ずっと沈黙が続いていた。安寿は緊張し始めていた。なんだかとても居心地が悪い。岸の息子だとはいえ、今日初めて会った男の車に乗って、いきなりふたりきりになってしまっても大丈夫なのかと心配になってきた。それに、この男は何か香水でもつけているのだろうか。独特な甘い香りがする。日本人なのに日本人ではないみたいだ。

 一方、航志朗はいささか制御不能になっている自分に混乱していた。とにかく今は運転に集中するしかないと航志朗はハンドルを握り直した。とはいっても、赤信号で停止すると隣に座った安寿の横顔をつい盗み見てしまう。そして、その安寿の頬に涙を流させてしまった自らの言動を後悔して胸がひどく痛んだ。今、安寿に謝罪しなければと航志朗は強く心に思った。やっとのことで航志朗は安寿にかすれた声で言い出した。

 「さっきはすまなかった。俺は君にひどいことを言った」

 突然、航志朗が謝ってきたことに、安寿は飛び上がるほど驚いた。実際にシートベルトが安寿の腹に食い込んだ。

 頬を赤らめた安寿はあわてて首と両手を大きく振って言った。

 「いっ、いえ、気にしないでください! 仕事中に眠ってしまった私が悪いんです」

 航志朗はその言葉に少し安堵した。それから、安寿のあまりにもピュアな可愛らしさに、たちどころに航志朗の心はすっかり魅了された。思わず航志朗は今すぐ車を止めて安寿をこの腕の中に抱きしめたいと思ってしまった。頬が紅潮してきたのを意識した航志朗はひそかに動揺した。
 
 (まずい……。俺は八歳も年下の女子高生相手に何を考えているんだ)
 
 安寿と航志朗が乗った車は高速道路に入った。土曜日の夕方ということもあり大渋滞している。車窓の外はいつのまにか真っ暗になっていた。遠くの空には上弦の月が浮かんでいる。青白く輝く月を見ながら、安寿はガラス窓に映る自分の隣にいる航志朗の横顔を見て素直に思った。

 (このひと、悪いひとではなさそうね)

 ほっとした安寿の腹が突然きゅるると高い音で鳴った。時刻はとっくに午後七時を過ぎている。無理もない。航志朗が腹を押さえて下を向いた安寿を横目で見て言った。

 「君、お腹が空いたんじゃないか? そこの咲さんの手料理を食べたら」

 「車の中でですか?」

 車種に無知な安寿でも、この航志朗の車が外国製の高級車だということは重々承知だ。

 「もちろん」
  
 「でも……、岸さんは食べないんですか?」

 「残念だが、俺はハンドルで手が塞がっている」と言うと、航志朗はある甘いアイデアがひらめいて、すぐに軽い口調で安寿に提案した。

 「じゃあ、君が俺に食べさせてくれない?」

 航志朗は安寿を正面から見て、にやっと楽しそうに笑った。

 「えっ?」

 安寿はきょとんとした目をしてから、顔を赤らめた。
 
 やむを得ず安寿は膝の上で風呂敷包みを開いた。咲の手料理が美しい漆黒の重箱に入っていて、おせち料理のようだ。中には見るからに丁寧につくられたいなり寿司や筑前煮、鶏のから揚げ、だし巻き卵、根菜の浅漬けが詰められていた。安寿は重箱を開けたものの、どうしたらよいのか困っていると、横からのぞき込んだ航志朗が無邪気に言った。

 「おおっ、おいしそうだな。俺は、まず鶏のから揚げが食べたいな」

 安寿は観念して文字通りひと呼吸してから、鶏のから揚げをつまんでそっと航志朗の口に運んだ。航志朗はハンドルを握りながら口に入れて、顔をほころばせながらおいしそうに食べた。安寿も同じものを食べた。安寿にとって他人に食べさせるのは初めての経験だ。それも自分よりずっと年上の大人の男に食べさせている。安寿はなんだかくすぐったくて愉快な気分になってきた。いなり寿司は大ぶりなので半分に割って口に運んだ。箸がないので手づかみなのは仕方がない。ときどき安寿の指先が航志朗の唇に触れて、そのひんやりとした感触に安寿の胸はどきっとした。重箱を空にしてふたりとも満腹になると、緊張がほどけて打ち解けた雰囲気になった。

 やがて、安寿と航志朗を乗せた車は安寿が叔母と暮らす団地に到着した。団地の広場には夏祭りのやぐらが立てられていて、盆踊りの音楽がにぎやかに流れている。だが、午後九時を過ぎているからか、人出はすでにまばらだ。

 「へえ、夏祭りをやっているのか」

 十年以上も日本を離れていた航志朗が珍しそうに言った。その時、綿あめを仲よく一緒にちぎって口にしている若いカップルが車の横を通った。

 「綿あめか。久しぶりに見たな」

 そんな航志朗の楽しげな横顔を見て安寿はふと思いついた。「岸さん、ちょっと待っていてください」と言って安寿は車を降りた。航志朗が不思議に思っていると、まもなく安寿は大きくふくらんだピンク色の綿あめの袋を抱えて戻って来た。

 「はい、これどうぞ。送っていただいたお礼です」

 「え? ああ、ありがとう。でも、俺が払うよ」と言って、航志朗は財布を取ろうとしたが、自分が日本円を一円も持っていないことに気づいた。と同時に、航志朗はブリーフケースの奥にずっとしまいこんで忘れていたある包みを思い出した。

 航志朗は「ごめん。俺、今、日本円を持っていなくて。代わりにこれでいいかな?」と言って、安寿に水色のビニール袋に入った物を手渡した。見た目よりもずっしりと重い。何が入っているのだろう。「開けてみて」と航志朗に言われて、安寿は恐る恐るビニール袋を開けた。何語かさっぱりわからない外国の新聞紙に厚く包まれた何かが出てきた。そして、その新聞紙の包みを開けると、中から古びた白いタイルのようなものが現れた。室内灯だけで車内は薄暗くてよく見えないが、青い絵具で人物像のような簡素な絵が染付けられている。

 「十七世紀のオランダのタイルだ。このコバルトブルーは……」

 「デルフトブルーですか!」

 安寿が目を輝かせて言った。

 「そう。君、よく知っているんだな。それ、二十ユーロだったんだ。けっこう掘り出し物だろ?」

 安寿は嬉しそうにじっくりとそのタイルに見入った。翼が生えたユーモラスな天使像が描かれている。安寿がこんなにも古いアンティークを手にするのは初めてだ。安寿は興奮したように大声を出して言った。

 「わあっ、可愛らしい天使ですね! それに、このタイルのグレイッシュなホワイトもとても素敵な色! これ、どこで手に入れられたんですか?」

 「ああ、この前、オランダに出張した時に、アムステルダムの蚤の市で見つけた」

 航志朗は思い出した。アンとヴァイオレットの結婚式の前日、航志朗はアムステルダムにいた。シンガポールに戻る飛行機が大幅に遅延して航志朗は時間を持て余し、ちょうど目についた蚤の市をひやかしていた時だった。航志朗は、白いひげを豊かに生やしたサンタクロースのような男に呼び止められた。その男の前には、年代別に分類されたアンティークのデルフトタイルが山のように積み上げられて並んでいた。「お兄さん、ほらこれ、片思いの彼女にプレゼントしなよ。絶対に想いが通じるから!」と突然言われた航志郎は(「片思いの彼女」だって?)と怪訝に思った。航志朗が適当にあしらおうとすると、サンタ男は「ほらほら、お兄さんの片思いの彼女、日本にいるんでしょ」と青く澄んだ瞳で言った。(日本? なんでわかるんだ)と航志朗はまたいぶかしげに思った。航志朗は海外で初対面の人から日本人だと言われたことがなかった。むしろ日本人だと言うと驚かれた。航志朗は奇妙に思い、ついそのアンティークのタイルを手に取ってしまったのだ。

 (でも、この話は、今は彼女に話さない方がいいな)と胸の内で航志朗は思った。

 別れの時間が来た。「じゃあ、また」と航志朗はわざと素っ気なく安寿に言った。

 安寿は「いろいろありがとうございました」とお辞儀をして車を降りようとしたが振り返って、「あの、いつシンガポールに戻られるのですか?」と航志朗に尋ねた。「明日の午後だ」と答えて、航志朗は思わず胸がしめつけられた。今日初めて会ったばかりだというのに別れ難い。だが、安寿はまったく航志朗の想いに気づいていない。「お気をつけて。では、失礼します」と言って、安寿は改めてお辞儀をして躊躇なく車を降りそのまま横に立った。車を見送るつもりなのだろう。

 航志朗は誰もいない真っ暗な世界に一人で取り残されたような絶望的な気分になった。自分がばかげているのは、じゅうぶん承知している。しかし、航志朗は、今、安寿に伝えたいことがあると切実に思った。「俺は君にまた会いたい」と。航志朗はすぐに動いた。車の外に出てもわっとした真夏の夜の暑苦しい空気に身をさらして、航志朗は初めて安寿の名前を呼んだ。

 「安寿さん!」

 安寿は不思議そうな顔をして、車を降りた航志朗の顔を見つめた。

 その時、航志朗は自分の本当の気持ちを安寿に伝えられなかった。

 「また、……君の作品を見せてくれないか」

 航志朗は車越しにやっとの思いで安寿に言った。安寿は恥ずかしそうに微笑んで「はい。また今度お会いした時に」と答えた。航志朗は一瞬天にも昇ったような歓喜を感じたが、安寿の言葉に他意はないと悟り落ち込んだ。

 「安寿さん、俺は……」と航志朗が言いかけた時、突然「あら、安寿じゃないの」と言う声が後ろから聞こえた。そこには安寿の叔母の恵が立っていた。渡辺と酒を飲んできたのか顔が少し赤い。ほっと肩を落として安寿が言った。

 「恵ちゃん! おかえりなさい。こちら岸先生の息子さんよ。車で送ってもらったの」

 即座に航志朗はすべてを理解して、恵にスマートにあいさつをした。恵は驚いた表情を浮かべたが、すぐに姪が世話になった礼を言った。航志朗は恵に会釈すると、車に乗り込んで去って行った。

 車を見送った安寿と恵は並んで家に向かった。その道すがら、恵は甘いため息をついて言った。

 「さすが岸ご夫妻の息子さんねえ。男前だったわあ。私、どきどきしちゃった」

 少し首をかしげて安寿は思った。

 (恵ちゃんって、ああいう男のひとがタイプなんだ。確かに頭よさそうな感じは、優仁さんに似ているかも)

 恵が安寿の顔をのぞき込んで言った。

 「ねえ、安寿はなんともなかったの?」

 「何が?」と、ぽかんとした顔で答える安寿を見て、恵は心底あきれてしまった。まだまだこの子は子どもなのだと恵は胸の内で安堵した。

 「ああ、そうだ。送ってもらったお礼に、私、岸さんに綿あめ買ってあげたの」と言って、安寿は広場の撤収作業中の綿あめ屋を指さした。看板には一袋五百円と書いてある。こっそり恵は深いため息をついた。

 (あんなに立派な大人の男性に、この子ってば……)

 航志朗はマンションに帰宅してソファに倒れ込んだ。いろいろな意味合いで長い一日だった。航志朗は手を伸ばして綿あめの袋を取り、その結んであるゴムをほどいて中の綿あめをちぎり口にした。それはふわふわで羽の綿毛のような食感がした。切なそうに航志朗はつぶやいた。
 
 「……甘いな。ものすごく」

 そして、航志朗は窓の外の月を見上げて、今日突然に出会った安寿を想った。

 (安寿さん、あのデルフトタイルに描かれているのは天使じゃないんだ。あれは黄金の矢を持つキューピッドだ。きっと君の心に恋の矢を放つ。……かもな)

 突然、舞い降りてきた安寿への届かない想いを胸に、翌日の午後のフライトで航志朗はシンガポールに戻って行った。










 
   
 









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