今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
第5章 君は自分で自分自身を守らなければならない
 安寿が岸のモデルになってから一年が過ぎた。

 あいかわらず岸は鉛筆でモデルの安寿を素描していた。岸のギャラリストとしての華鶴から早く油絵に取りかかるように催促されているが、岸は再び人物画を描くことに自信が持てないでいた。その間にも次々に顧客から新作の風景画の依頼が来る。安寿がアトリエにやって来る土曜日以外は、岸は依頼された風景画の制作に追われていた。岸は安寿に絵を教えていながらも、自分自身の絵の方向性が見えないことにあせりを感じていた。

 しかし、画家はわかっている。本当は人物画を描く自信がないのではなく、キャンバスを通して安寿と正面切って向かい合うことが怖いのだ。自分はきっと画家とモデルの境界線を越えてしまうだろう。昔のように。そして、安寿を深く傷つけることになるかもしれない。岸は知っている。自分の画家としての捨てきれない残酷な情熱がその境界線を越えるどころか、いつかそれを跡形もなく燃やし尽くしてしまうだろうということを。その確信めいた予感に岸は内心おびえていた。

 暖かい春の日に安寿は十七歳になった。高校生活は順調そのもので、個性的な友人たちともすっかり打ち解けた。岸からの温かいアドバイスもあって、入学当初のような他の生徒と自分の画力を比べて落ち込んでいた安寿はもう過去のものだった。誰にどう評価されようとも、自分の絵を自由に描く。ただそれだけだ。その姿勢は安寿をより強い足取りで前に進ませる。そして、安寿自身のなかにある唯一無二の美しさを引き出した。
 
 岸はこの一年の間に、刻々と力強く、そして美しく変化していく安寿を誰よりも近くで見てきた。目の前の他者を見て描くという行為は、その他者を認識するということだ。十冊にも及ぶ画家のスケッチブックを見ればわかる。画家ははからずも、安寿の「美しい力」の成長と成熟を精密に記録している。

 そして、あと二人、安寿の成長と成熟を間接的に認識できる人物がいる。航志朗と華鶴だ。航志朗は華鶴の依頼を受けて、額装された安寿の素描と安寿をデッサンした絵が描かれているスケッチブックを売却するためにフランスに渡ることになった。とはいえ、航志朗のシンガポールでのアンとの共同事業は、まとまった休みが簡単には取れないほど忙しい。そんな状況下で航志朗はなんとかスケジュールを調整し、岸の作品を受け取りに東京の黒川画廊に向かっていた。

 シンガポールを午後十一時に離陸した深夜便に航志朗は搭乗している。直前まで仕事をこなし、ぎりぎりでこの便に飛び乗った。羽田空港に到着するのは、日本時間で翌日の午前六時すぎだ。薄暗い機内で夕食をとっていなかった航志朗は配られた軽食をつまみ、飛行機の窓の外を見た。外は真っ暗だ。ときおり漁船の灯りだろうか、小さな光が下方に見える。メールをチェックしていたノートパソコンを閉じて腕を組んだ航志朗は目を閉じた。日本に帰国するのは十か月ぶりだ。安寿はどうしているのだろうと航志朗はもの思いに沈んだ。

 「コーシ、久しぶりに日本に帰国してから、なんか変わった」

 午前零時を過ぎてから帰宅したアンが、妻のヴァイオレットにこぼした。ここは高台にある高級住宅地に建てられた新婚のふたりの新居で、シンガポールでは珍しい庭付きの一軒家だ。

 「変わったって、どんなふうに?」

 実家から一緒に引っ越してきた老犬のペキニーズを抱きかかえながら、ヴァイオレットが眠そうな顔をして尋ねた。ヴァイオレットは地元の経営大学を首席で卒業して、実家が運営している社会福祉事業財団の理事をしている。本当はアンと一緒にイギリスの大学に留学したかったのだが、父に許してもらえなかった。本人いわく「パパを見返してやりたかったから」とヴァイオレットは学生時代に必死になって猛勉強した。だが、結局のところ、ヴァイオレットの素質とスキルがウォンファミリーにとって多大な利益をもたらしていることに、ヴァイオレットは気づいていない。
 
 口をへの字に曲げたアンが両肩を上げて言った。

 「コーシさ、女性に手を出さなくなった」 

 「えっ、どういうこと?」

 ヴァイオレットが目を丸くした。

 「あいつ、イギリスにいた頃からものすごくもてて、ガールフレンドには不自由してなかったけど、全部きっぱり断るようになった」

 「日本で好きなひとができたんじゃないの?」

 ヴァイオレットは意味ありげににっこり笑った。

 「ヴィー、やっぱり君もそう思うだろ? ああ、コーシが僕たちの会社を辞めて、日本に帰るって突然言い出したら、いったい僕はどうしたらいいんだ……」

 そう言うと、アンは大げさに両手で天を仰いだ。

 「まあまあ、アン、落ち着いて。コーシはそんな無責任なことはしないわよ。それより、もし本当にコーシに好きなひとができたのなら、私、ひと安心するわ。だって、コーシってとっても冷たいんだもの」

 ヴァイオレットはよしよしとアンの頭をなでながら言った。何食わぬ顔のペキニーズがふたりの間にはさまれながらくしゃみをした。

 「えっ? ヴィー、何言ってるんだよ。コーシは優しいよ」

 「そういう意味じゃなくて。なんていうか、コーシは冷えきっているの、心も身体も。だから、誰か彼を温めてくれるひとが必要よ」

 「僕じゃだめなのか?」

 「だめだめ! もう、そんなの当たり前でしょ!」

 あきれたヴァイオレットの頬をペキニーズがぺろっとなめた。

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