今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 アトリエの窓の外に薄暗い雲が広がり始めた。裸足で安寿は肘掛け椅子に座っていた。時刻はとうに正午を過ぎている。安寿の両足は頼りなげに揺れていた。足の指先を航志朗に口づけられた感触を胸を熱くして思い出すが、押し寄せる罪悪感がそれをすぐに冷ましてしまう。

 岸がアトリエに戻って来た。見るからに岸の顔は青ざめている。安寿は不安げなまなざしで岸を見上げた。

 キャンバスの前に座った岸が安寿を見つめて静かに言った。

 「安寿さん、目を閉じてください」

 「……はい」

 そのまま安寿は目を閉じた。

 画筆を握って再び岸は描き始めた。華鶴が少しだけドアを開けて、そのすき間から画家とモデルの様子をうかがった。無表情で華鶴は音もなくその場を立ち去った。

 目を閉じながら、安寿は航志朗の姿をまぶたの裏に思い描いていた。

 (彼に会いたい。今、目を開けたら、私の目の前に彼が立っているといいのに)

 やがて、肘掛け椅子に寄りかかり、安寿は眠ってしまった。

 窓の外が暗くなってきた。ほどなくして、ぽつぽつと雨音がしてきた。アトリエの中では、その琥珀色の瞳を陰らせて岸は画筆を走らせている。

 だんだん雨脚が強くなってきた。強風にあおられた雨粒が窓から吹き込んできて、岸はアトリエの窓を閉めてカーテンを引いた。

 振り返って岸は安寿を見つめた。裸足の両足をだらりと下げて、安寿はぐったりと疲れきった様子で深く眠っている。

 岸は安寿にゆっくりと近づいて行った。岸は安寿の前にひざまずいて、安寿の右足を手に取った。そして、岸は安寿の足の甲にそっと口づけた。

 岸は小声でつぶやいた。

 「……愛」

 「安寿さま、……安寿さま」

 遠くから誰かが呼んでいる声がする。ゆっくりと安寿は目を開けた。

 「安寿さま、起きてくださいませ。裸足のままでは風邪をひいてしまいます」

 それは咲の声だった。咲は安寿の手を握って優しい声で言った。

 「安寿さま、お腹がお空きになられたでしょう。さあ、咲と一緒に食事室に参りましょうか」

 安寿はまだぼんやりとしている。

 「咲さん、今、何時ですか?」

 咲は少し困った様子で答えた。

 「午後八時すぎでございます」

 はっと安寿は目を見開いた。窓の外は真っ暗になっている。アトリエには岸の姿がない。

 「あの、岸先生は?」

 「だんなさまは、先ほどお部屋に行かれました」

 「そうですか」

 安寿は気だるそうに立ち上がった。ふらふらとイーゼルの前に行って、立て掛けられたキャンバスを見つめた。目を閉じた自分が完全に描かれている。

 (無事に完成したんだ……)

 安寿はほっとして岸の絵の前に両膝をついてへたり込んだ。あわてて咲が安寿の背中を支えた。

 岸の作品を目の前にして、心のなかで咲はひそかに思った。

 (なんて哀しい絵なのかしら……)

 二十九歳だった咲が岸家で家政婦として働くことが決まった時、岸家の執事に就任したばかりの伊藤から厳重に注意された。くれぐれも岸の作品への個人的な感想を口に出さないようにと。それでも、この目を閉じた安寿の絵は、咲の心の奥底をえぐった。忘れていた遠い昔の出来事が次々に浮かんでくる。

 (私は哀しい思い出に目を閉じている。……自分を守るために、ずっと)

 思わず涙がにじみ出てきて、咲は安寿に気づかれないようにエプロンでそれをぬぐった。

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