今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その日の深夜、航志朗のスマートフォンに電話がかかってきた。華鶴からだった。航志朗はソウル市内のホテルに滞在していた。豪奢な超高層ホテルで、鄭ファミリーが経営している。一人きりだというのに、鄭会長の厚意で最上級のスイートルームに宿泊していた。

 口を開くなり、華鶴は大きな怒鳴り声をあげた。

 「航志朗さん、なんてことをしてくれたの!」

 「は? ……なんのことですか」

 スマートフォンを耳から遠ざけて航志朗は尋ねた。

 「あなた、安寿さんに手を出したでしょう。おかげで、あの絵が頓挫しかかったのよ!」

 「『手を出した』なんて、あなたにしてはすいぶんと低俗なもの言いですね。お忘れですか。僕たちは夫婦で愛し合っているんですから、当然のことでしょう」

 あまりの低レベルな会話に航志朗は苦笑いするしかない。

 「とにかく作品は完成したから、すぐにあのお方の元へ届けて。ただし、あなたの今回の報酬はゼロよ!」

 「……奉仕活動(ボランティア)、ということですね」

 航志朗はほくそ笑んだ。

 「もしかしたら、あのお方に突き返されるかもしれないけれど、航志朗さん、あなた、うまくやりなさいよ!」

 通話は一方的に終了した。
 
 (「突き返される」? ……どういうことだ)

 ホテルの部屋の窓から航志朗はソウルの夜景を見下ろした。雄大に流れる漢江(ハンガン)がライトアップされていて、きらめく高層ビルディング群が眼下に小さく見える。バスローブ姿の航志朗はキングサイズのベッドに腰掛けて、炭酸水を飲んだ。真っ白なシーツをなでると、安寿が隣にいることを思わず想像してしまう。航志朗の脳裏のなかの安寿はもう何もまとっていない。両手を広げてゆっくりと抱きついてくる。顔を赤らめて航志朗は頭を抱えた。

 (安寿、君のところに帰るよ。今度の週末に必ず……)

 その週の金曜日、大学の四限の講義が休講になった安寿は、いつもより早く帰宅した。岸家のエントランスに入ると、華鶴のイタリア製のベージュのドライビングシューズが置かれてあった。サロンでは華鶴が大型のアタッシェケースに岸の作品を収めていた。

 「華鶴さん、こんにちは。ただいま帰りました」

 「あら、安寿さん。おかえりなさい」

 華鶴は安寿が抱えている油彩の入ったポリエステル製の黒いキャンバスバッグに目を止めた。

 「安寿さん。今、大学でどんな絵を描いていらっしゃるの?」

 「花の静物画です」

 安寿はキャンバスを取り出して華鶴に見せた。華鶴は目を細めて言った。

 「あら、私が個人的に好きな色彩だわ」

 安寿は恥ずかしそうに微笑んだ。

 紅茶を運んできた咲も安寿の絵を見て微笑んだ。そこには、真っ赤な菊の花が描かれていた。しばらく安寿の絵を見つめていた華鶴はふと思いついたかのように言った。

 「安寿さん、この絵を持って立ってみてくださらない?」

 華鶴に言われるがままに、安寿は絵を持って立った。満足そうに華鶴は微笑んで言った。

 「あなた、赤がとてもよく似合うわね。ねえ、咲さんもそう思うでしょう?」

 咲は「本当ですね」と言って深くうなずいた。

 内心で安寿は驚いた。

 (そんなこと初めて言われた。私、赤い服なんて一度も着たことがないのに)

 今日の安寿は、ダークネイビーのクラシカルな開襟のリネンワンピースを着ている。

 すると、突然、華鶴が安寿に言った。

 「急で申しわけないけれど、安寿さんにお願いしたいことがあるの」

 安寿はうなずいて言った。

 「はい。華鶴さん、なんでしょうか?」

 「これから羽田空港に行って、ソウルからやって来る航志朗さんにこのアタッシェケースを渡したいのだけれど、安寿さんにお願いしてもいいかしら?」

 花のつぼみが開くように安寿は頬を紅潮させて勢いよく返事した。

 「はい。わかりました、華鶴さん!」

 嬉しそうな表情を浮かべた安寿を見て、咲もつられてにっこりと笑った。

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