今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 「安寿?」

 星野蒼が小雨が降る窓の外をぼんやりと眺めている安寿に声をかけた。

 清華美術大学付属高校の美術室で、二年生の生徒たちが石膏像を囲みデッサンをしている。

 「どうした? ぼーっとして」

 「ううん、なんでもない。ちょっと疲れちゃった」

 我に返った安寿は木炭を握り直してデッサンを続けた。安寿の両手の指先は真っ黒だ。

 「僕も疲れた。もう飽きた。石膏デッサン、ものすごく退屈だ」

 うんざりしたように首を左右に振りながら、宇田川大翔が言った。大翔の隣にいる原田莉子が肩を震わせて笑った。莉子は石膏デッサンが得意で、大翔の言う莉子の「はんなりとしたたたずまい」からはまったく想像もつかないほどのダイナミックなミケランジェロ像をさくさくと描いている。

 窓の外に見える校庭を取り囲む樹々が灰色にけぶっている。ふと安寿は航志朗のことを思い出した。

 (あのひと、どうしているのかな。あの絵を本当にまた見てくれるのかな)

 岸家の裏の森を描いた絵は額装して、今、安寿の部屋に飾ってある。あの絵は昨年の秋に開催された学内展覧会で、校長特別賞を授与された。それを聞いた恵と華鶴はとても喜んだが、当の安寿本人はいまだに信じられない。そして、その絵の隣には航志朗から贈られたデルフトブルーのアンティークタイルが置かれている。

 マンションに戻った航志朗はとりあえず風呂敷包みをほどいて重箱を開け、中に詰められていたおにぎりを一つほおばった。おにぎりには梅干しと醤油で和えた鰹節が入っていて、懐かしい味がした。それから、航志朗はノートパソコンを開けて仕事をし始めた。

 ひと息つくと、横目で部屋のすみに置いたアタッシェケースを見た。ずっと航志朗は思い惑っていた。

 (俺はあの中身が見たいのか。見てしまってもいいのか。……理性を保てるのか)

 ついに航志朗はアタッシェケースに手を伸ばした。そして、鍵を開けて、ふたをそっと開けた。航志朗の手は震えた。やっとの思いで航志朗は黄金布に厳重に包まれた額とスケッチブックを取り出した。

 胸がドクンと重く鳴った。一瞬で航志朗の目は釘づけになった。額には安寿の素描が入っている。航志朗が父のアトリエで初めて見た安寿の姿だ。絵のなかの安寿は横向きに寝そべりながら、目を開けてこちらを見ている。その穢れを知らない強いまなざしに射抜かれて、航志朗は息ができない。鉛筆だけで描かれたデッサンだというのに、航志朗はその迫力に圧倒された。

 (なんなんだ、これは……)

 航志朗は震える自分の手に白手袋をはめて、スケッチブックをめくった。一ページ、一ページと、そこに描かれた安寿を目に焼きつける。次から次へと初めて見る安寿の姿が現れる。制服姿で正面を向いてすまし顔でカウチソファに座っていたり、頬杖をついてうつむく横顔だったり、遠くを眺めるような後ろ姿だ。だんだん息が苦しくなってきて、航志朗はいったん手を止めた。何回も深呼吸をする。再び航志朗はスケッチブックをめくった。恥ずかしそうに微笑んでいる安寿に、ぼんやりと何かを考えている安寿が現れる。ラフに描かれてはいるが、どれも航志朗の知らない安寿の姿だ。そして、ある事実に気づき、航志朗の心は激しくかき乱された。

 (これが父が見たモデルの彼女。……なんて無防備な姿なんだ)

 突然、航志朗に大きな不安が襲ってきた。その不安の原因を渾身の力で航志朗は考えた。

 (そうだ。彼女はプロのモデルではない。モデルが自分を守らないで他人の目にさらされることがどんなに危険なことなのか、彼女はわかっていない)

 どうにかして、それを安寿に伝えなければと航志朗は思い詰めた。真っ暗な闇から安寿を守ることは自分にしかできないと心の底から切実に思う。狂おしいほどに。

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