今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 日本へ向かっている飛行機の中の航志朗は、なかなか眠れないでいた。午前二時の機内はライトを落として暗く、とても静かだ。航志朗は安寿のことをずっと想っていた。
 
 初めて安寿と出会ってから十か月が経った。あれから安寿のことを思い出さなかった日は一日たりともない。結局、航志朗は安寿の連絡先を聞けずじまいだった。母と伊藤は知っているだろうが、とてもじゃないが彼らに訊くことはできない。唯一知っているのは安寿が住む団地の住所だけだ。だが、号棟や部屋番号まではわからない。そもそも自分のことを安寿はどう思ったのだろうか。まったくわからない。この十か月間、土曜日になると安寿があのアトリエで父のモデルになっているのかと思うと、心がどうにも落ち着かない。

 (まさか、俺は父に嫉妬しているのか?)

 航志朗は苦しそうに頭を抱えた。通りがかったキャビンアテンダントがちらっと航志朗を見た。すぐに彼女は何かお飲み物をお持ちしましょうかと航志朗に尋ねた。航志朗は首を振ってから礼を言った。
 
 シンガポールから日本までの距離は約五千キロメートルだ。海外を飛び回っている航志朗にとって、それほど遠い距離ではない。ただ問題なのは、安寿自身との距離だ。

 (明日の昼すぎにはフランスに出発だ。きっと、今回、彼女に会えるチャンスはないな……)

 航志朗は深いため息をついた。とにかく今は目を閉じるしかない。闇夜の空の中で。

 うつらうつらとした航志朗を乗せた飛行機は早朝の羽田空港に到着した。東京は霧雨が降っていた。航志朗はタクシーでマンションにいったん帰った。一泊だけだが伊藤が滞在する準備を整えておいてくれた。とりあえず航志朗は熱いシャワーを浴びた。それから小腹が空いたので、熱いコーヒーと一緒にクラッカーにクリームチーズとピーナッツクリームをつけて食べた。黒川画廊で華鶴と会うアポイントメントは午後三時だ。まだ時間にだいぶ余裕がある。航志朗はソファにもたれながら、黒革の手帳を眺めた。中には、スケジュールや事業計画、アイデアの覚え書きがびっしりと書かれている。その手帳の最後のページを航志朗はめくった。そこには、安寿の姿がペンで描かれていた。

 航志朗は子どもの頃「絵を描くのが好き」と感じる前に、自分の絵を母と寄ってたかって来た他人につぶされてしまった。航志朗は幼い頃から自ずと毎日絵を描いていた。一人っ子で遊び相手がいなかったし、画家の父の後ろ姿を見ていたからかもしれない。

 家の外で航志朗が絵を描くと、周りにいた大人たちも子どもたちも誰もが驚いた。「すごい」とか「天才だ」とか、さんざん言われた。航志朗自身は、他人が勝手に褒めてくることが面倒でたまらなかった。

 やがて、母に連れられて、著名な画家たちのもとに通った。はじめのうちは、家に不在のことが多かった母と一緒に出かけられることが嬉しかった。だが、次第に画家たちの目的は母と会うことで、自分に絵を教えるのはただの手段だということがわかってしまった。

 ある日、新進気鋭の画家のアトリエで、若い画家からフルーツの静物画を描くようにと言われた通りにしていたら、ふと母も画家もアトリエからいなくなったことに気づいた。航志朗は急に不安になり母を探しにアトリエを出たら、薄暗い部屋で母とその画家が抱き合っている現場を目撃した。航志朗は誰にもその出来事を言えなかった。真っ黒な罪悪感に取り囲まれて、次第に航志朗は絵を描くことができなくなった。

 航志朗は目を開けた。いつのまにか黒革の手帳を抱えながらソファで寝入ってしまっていた。スマートフォンを見ると午後二時を回っている。航志朗は伊藤が用意しておいてくれた冷凍うどんをレンジアップして、めんつゆを適当にかけて食べてから、地下鉄の駅に足早に向かった。

 外は雨が降り続いていた。今朝よりも雨足が強くなっているが、南国のスコールよりはましだ。航志朗は人もまばらな通りを傘をさしながら歩き、黒川画廊に到着した。画廊のエントランスでは伊藤が待ち構えていて、タオルを航志朗に手渡した。

 「航志朗坊っちゃん、おかえりなさいませ。地下鉄でいらっしゃったのですね。機内では、よく眠れましたか?」

 航志朗は伊藤にうなずいて礼を言った。

 いささか後ろに下がって、伊藤は目を伏せて静かに言った。

 「華鶴奥さまが、オフィスでお待ちです」

 航志朗は画廊の階段を上がった。今日の航志朗は普段通りに冷静沈着でいる。四階のオフィスのソファには、十か月前と同じように華鶴が座っていた。華鶴の目の前のローテーブルにはアタッシェケースが横たわり、その上には小さな鍵が二つ置かれていた。

 航志朗は華鶴にあいさつもせず、小さな鍵をジャケットの内ポケットに入れてアタッシェケースを持ち上げた。そして、「後はお任せください」と事務的に言ってきびすを返し、階段に向かった。

 「くれぐれも雨に濡らさないようにね」

 無表情の華鶴は航志朗の後ろ姿に静かに言った。

 一階に下りると、伊藤が穏やかな笑顔で航志朗を迎えた。伊藤は、航志朗と華鶴の親子関係のすべてを承知している。
 
 「航志朗坊っちゃん、お気をつけていってらっしゃいませ。ニースはきっと美しい街なのでしょうね。それから本日のお夕食です」と伊藤は言って、見覚えのある風呂敷包みを手渡した。航志朗は安寿が車の中で咲の手料理を食べさせてくれた甘いひとときを思い出した。伊藤がタクシーを呼び、航志朗はアタッシェケースと風呂敷包みを抱えて帰途に着いた。

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