今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 岸家の自室で安寿は手帳のメモページに向き合っていた。時刻は午後十一時半を過ぎている。急に眠くなってきて、安寿は目をこすった。メモページには、明日の夕食のメニューと用意する食材が書かれている。また、料理を盛りつけたイラストも丁寧に描かれていた。

 (早く明日の夜にならないかな。昨日会ったばかりなのに、彼に会いたくて会いたくて仕方がない)

 安寿は今日の昼間の出来事を思い出すと顔を赤らめてため息をついた。

 金曜日の夜、安寿はよく眠れなかった。思いがけず航志朗とホテルで過ごして気分が高揚していたこともある。だが、実は、翌日のモデルの仕事の時間がやって来ることに緊張していたのだ。

 私はまた画家のモデルになることができるのだろうか。もしかしたら、もう岸のモデルの仕事は終わったのかもしれないと安寿は胸の内で思った。そうなったら、この屋敷を出て行かなければならない。航志朗と離婚して。

 土曜日の朝、安寿はいつも通りに岸のアトリエに向かった。安寿は普段着だ。ネイビーのリネンワンピースを着ている。アトリエに岸はいなかった。安寿は深いため息をついた。岸のイーゼルには何も置かれていない。

 (やっぱり、岸先生のモデルの仕事は終わってしまったのかもしれない……)

 安寿はアトリエの窓から裏の森を眺めた。明るい日差しが森の樹々を照らしている。安寿はカウチソファに座って、座面にそっと手を触れた。

 (ここで、私たち、初めてのキスをしたんだ。ぜんぜん覚えていないけれど)

 思わず安寿は泣きそうになった。顔を上げ固く目を閉じて我慢した。

 (あの時、私たちは愛し合って結婚したんじゃない。私は自分の身の振り方のために、彼との結婚を利己的に利用したんだ。この結婚は、はじめから「契約結婚」なんだもの。これから先も彼とずっと一緒にいるなんて、絶対に許されない)

 静かな足取りで岸がアトリエに入って来た。一瞬、岸は驚いたように目を見開いた。だが、すぐにいつもの穏やかな口調で言った。

 「安寿さん、おはようございます」

 「岸先生、おはようございます」

 哀しげに安寿は微笑んだ。

 (きっと、これから岸先生に「これでモデルの仕事は終わりました」って言われるんだ……)

 岸は安寿の隣に座った。思いがけないその近すぎる距離感に安寿は胸をどきっとさせた。だが、安寿は吸い寄せられるように岸の琥珀色の瞳を見つめた。なぜか懐かしい気持ちになる。岸はしばらく安寿を見つめていた。

 安寿は不思議な想いにとらわれた。岸は自分を見ているようで見ていない。誰か別のひとを見ているかのようだ。

 岸は小声でひとりごとのように言った。

 「安寿さん、あなたを見ていると昔を思い出します。私には、かつて心から愛してしまった女性(ひと)がいました。その時、すでに夫であり父親でありながら。それは、許されないことでした」

 安寿はなんと答えたらよいのかまったくわからない。ただ、岸の深い哀しみを感じるだけだ。

 突然、岸は安寿を抱きしめた。驚いた安寿は岸の腕の中で真っ赤になって固まった。そのままで岸は安寿に懇願するように言った。

 「再びあなたを描くことを許していただけますか、安寿さん。私は、もっと、もっと、あなたを描きたいんです……」

 ほっとしながら安寿はうなずいた。岸の肩ごしに裏の森が見えた。岸の腕の中でひそかに安寿は思った。

 (よかった。まだ航志朗さんと一緒にいられるんだ。最長で大学を卒業するまでだけど)

 黄金色の西日に照らされたコート・ダジュール空港に到着した。ノアとの別れの時間がやって来た。出国ゲートの前で航志朗はノアを抱きしめた。ノアも航志朗を強く抱きしめた。

 「ノア、ありがとう。今度会う時にはあなたは父親になっているんですね。あなたたち家族に会いにまたここに来ます。……アンジュと一緒に、必ず」

 ノアは目を大きく見開いて言った。

 「コーシ! 私に彼女の名前を教えてくれたんですね」

 「あなたになら伝えてもいいと思ったんです。でも、ムッシュ・デュボアには内密にしておいてください。どうかお願いします」

 航志朗はノアの肩に手を置いた。

 「わかりました。ありがとう、コーシ」

 ノアは目を潤ませて言った。

 「彼女は、天使(アンジュ)なんですね……」

 航志朗は軽く首を横に振って言った。

 「実は、日本語の意味は違うんです。安心して歳を重ねていけるようにって、彼女のおじいさんが名付けてくれたって、以前アンジュが言っていました」

 「その『安心』を彼女に与えられるひととは、もちろんあなたですね、コーシ!」
 
 そう自信ありげに言うとノアは微笑んだ。

 航志朗が驚いたように言った。

 「そうか、そうですね。考えてもみなかったな……」

 ノアと別れて(から)のアタッシェケースを手に持った航志朗は、パリ行きの国内線の搭乗ゲートに向かった。

 (俺は、彼女に「安心」を与えることができるのだろうか)

 航志朗は鈍色に薄暗くなっていく空を見上げながら思った。

 (いったい、俺はこれからどうしたらいいんだ……)

< 236 / 471 >

この作品をシェア

pagetop