今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第2節

 日曜日の朝、安寿は朝食を済ませると電車に乗っていそいそと航志朗のマンションに向かった。黒いマウンテンリュックサックには一泊分のお泊りセットの他に月曜日の大学の持ち物も入っている。一限の『日本美術史概論』のテキストも入れた。

 いつものスーパーマーケットでメモを見ながらじっくりと時間をかけて食材の買い物をしてからマンションに到着した。管理人の高羽がアプローチで植栽の手入れをしていた。大荷物を抱えて安寿はにこやかにあいさつをした。

 高羽はオレンジ色の秋バラを一輪切って安寿に手渡した。

 「岸さま、くれぐれもバラのとげにはお気をつけてくださいね」

 嬉しそうに安寿は礼を言った。
 
 「ありがとうございます。とてもいい香りですね」

 穏やかにたたずんだ高羽は和やかに微笑んだ。

 合鍵でマンションに入ると、まず安寿はバラの花をグラスに生けた。またその濃厚な香りをかぐ。窓を開けて部屋の空気を入れ替えた。それから掃除機をかけて、トイレとバスルームを掃除した。すでに正午を過ぎた。簡単にサンドイッチをつくって食べてから、安寿は栗の皮むきを始めた。ふと手を止めると安寿は窓の外の空を眺めた。

 (今、彼はどのあたりにいるんだろう。胸がどきどきする。私たちの距離は、またどんどん近くなっているんだ……)

 航志朗が搭乗した飛行機は予定より二十分遅れで、午後六時五十分に羽田空港に到着した。駆け足で航志朗はタクシー乗り場に向かったが、運悪く乗り場には行列ができていた。航志朗は苛立ちを隠しきれずに、何回もスマートフォンの時刻を確認した。

 やっと順番がきてタクシーが発車してからあることに気づいて航志朗は肩を落とした。

 (花束とかスイーツとか、安寿のために何か用意すればよかった。本当に気がきかないな、俺は。まったく……)

 航志朗は隣に置いたアタッシェケースを見た。

 (それにしても、ニースの空港でたまたま目に入った土産を買っておいて正解だったな)

 その頃、安寿は一生懸命になって料理をしていた。エプロンのポケットに入れたスマートフォンを何回も確認したが、航志朗からの連絡はない。安寿は首をかしげた。

 (彼は、本当に帰って来るのかな……)

 もうすぐ八時になる。安寿は深くため息をついた。その時だった。突然、インターホンが鳴った。

 (航志朗さんが帰って来た!)

 あふれ出る嬉しさで胸をいっぱいにして、インターホンの画面を見ずに安寿は玄関に向かって走り出した。だが、途中でガスをつけたままになっていることに気づいて、あわてて引き返してガスを止めた。

 マンションの玄関ドアの前に立った航志朗はインターホンを押したものの、応答がない。

 (もしかして、安寿、来ていないのか……)

 がっくりと航志朗は両肩を落としてうつむいた。仕方なくマンションの鍵を取り出そうとブリーフケースを開けようとした。すると、突然、玄関ドアが開いて、エプロン姿の安寿が靴も履かずに飛びついてきた。

 「航志朗さん、おかえりなさい!」

 目を見開いた航志朗は、安寿を抱きとめて大声を出した。

 「ただいま、安寿!」

 安寿と航志朗は見つめ合った。おととい会ったばかりだというのに、なんだか久しぶりに会ったように感じる。安寿は航志朗の琥珀色の瞳を見つめた。航志朗も安寿の黒い瞳を見つめた。ふたりの顔がゆっくりと近づいていく。そっと唇を合わせてまた見つめ合ってから、ふたりは口づけし合う。

 航志朗は左手で安寿の腰に手を回して唇を重ねながら、右手と右足を使ってスーツケースとブリーフケース、アタッシェケースを玄関の中に手荒く押し込むと、後ろ手にドアを閉めて鍵をかけた。そのとたんに航志朗は安寿を両腕で力を込めて抱き、安寿の名前を甘く口にしながら深く唇を重ねた。

 玄関の壁に押しつけられた安寿は身体がとろけて立っていられなくなってきた。航志朗は両足のかかとをこすり合わせて革靴を脱ぐと、ふたりはもつれ合いながらリビングルームに行った。そして、ソファに倒れ込んで抱き合う。息が荒くなりながら航志朗は安寿が着ているワンピースのボタンを外そうとするが、エプロンが邪魔をする。

 安寿は航志朗の手を握って、やっとのことで提案した。

 「航志朗さん、お腹空いたでしょう。夕食にしましょう」

 安寿は肩で息をしている。

 やっと、それに航志朗は気づいた。そして、小さな男の子のようにつぶやいた。

 「おいしそうな香りがするな。そういえば、お腹空いた」

 くすくすと安寿は可愛らしく笑った。航志朗も照れくさくなって一緒に笑った。

 「すぐに用意しますね。ちょっと待っていてください」

 安寿はエプロンの腰ひもを締め直しながら勧めた。

 「航志朗さん。お風呂も用意してありますけれど、お先にいかがですか」

 「ひとときも君と離れたくないから、あとで一緒に入る。明日の昼のフライトでシンガポールに戻るから」

 「……そうですか。私は、明日、一限から講義があるんです」

 寂しげに安寿は微笑んだ。その表情に航志朗は胸が締めつけられた。

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