今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 大学へ向かう道の途中で、助手席に座った安寿は何回も航志朗の顔を心配そうにうかがった。ずっと航志朗は深刻な表情で何かを考えながらハンドルを握っていた。

 安寿と航志朗は大学の正門の近くに到着した。初めて航志朗は清華美術大学にやって来た。

 「へえ、けっこう近代的なキャンパスなんだな。学費が高額なわけだ」

 思わず安寿は苦笑を浮かべた。

 気を取り直して安寿は航志朗に礼を言った。

 「大学の学費の目処が立ったのは、航志朗さんとクルルのおかげです。本当に心から感謝しています」

 毎月、安寿はクルルから送られてくるタイルに牛の線画を描いて、アイスランドのクルルの美術館に送り返している。タイルは美術館主催のワークショップに使用されている。老若男女ともに大人気で、三年先まで予約が入っていると航志朗から聞いている。その報酬は充分に残りの二年分の学費になる。

 「安寿、いつか一緒にクルルの美術館にも行かないとな」

 黙ったまま安寿はうつむいた。

 「航志朗さん、送ってくださってありがとうございました。どうかお気をつけて」

 マウンテンリュックサックを手に持って安寿は助手席から腰を浮かした。思わず航志朗は安寿の腕を強くつかんだ。ふたりは見つめ合った。吸い寄せられるように顔を近づける。

 その時、車の窓をこつこつと叩く音がして、安寿と航志朗は振り返った。

 「おはよう、岸ご夫妻」

 黒川だった。一瞬で安寿は顔色を変えて、思いきり航志朗は顔をしかめた。やむを得ず安寿と航志朗は車から降りた。航志朗は頭を下げて黒川に丁寧にあいさつをした。

 「皓貴さん、おはようございます。ごぶさたしております」

 安寿も航志朗に倣ってお辞儀をした。

 墨色の着物をまとった黒川は冷ややかな笑みを浮かべて言った。

 「月曜の朝からお熱いなあ。そういえば、おふたりで並んでいるところを初めて見たよ。ふうん、なかなかお似合いなんじゃない」

 いきなり黒川は安寿の手を握って引っぱった。

 「安寿さん、一緒に行こうか。そろそろ、僕たち(・・)の講義の時間だよ」

 助けを求めるように安寿は振り返って航志朗を見た。すぐに航志朗は安寿を引き寄せて黒川の手を払いのけた。

 「皓貴さん、私の妻に気安く触らないでいただけますでしょうか」

 黒川はくすくすと愉しそうに笑って言った。

 「だめかい? 手を握るくらいなら別にいいじゃないか。航志朗くん、君って独占欲が強いんじゃないの。まあ、仕方がないか。生まれた時から実の母親に愛されなかったんだからね。それにしても、君の奥さまは優秀な学生さんだよ。僕の手伝いもちゃんとしてくれるしね」

 そう言うと、黒川は背中を見せて去って行った。

 すぐに航志朗は安寿に尋ねた。

 「安寿、皓貴さんの講義を取っているのか?」

 航志朗の顔は青ざめている。

 「突然、後期から一限の『日本美術史概論』の担当教官になられたんです」

 「そうだったのか。どうして俺に言ってくれなかったんだ、安寿?」

 どうしても航志朗は安寿をとがめるように強い口調になってしまった。

 「それは……」

 安寿は口ごもった。 

 「心配をかけたくなかったから」

 「安寿、俺は君のすべてを知りたい。だから、俺には本当のことを言ってほしい。全力で君を守りたいから」

 「……ごめんなさい」

 その時、どうしても安寿は「わかりました」とは言えなかった。安寿のその心の葛藤に航志朗は気づいた。航志朗の心に真っ黒な不安が襲いかかってきた。無言で航志朗は安寿を強引に車に乗せてシートベルトを締めた。そして、すぐに車を発進させた。

 安寿はあわてて言った。

 「航志朗さん! 私、大学に行かなくちゃ」

 大声を出して航志朗は命令するように言った。

 「だめだ!」

 「これから、航志朗さんはシンガポールに戻られるんでしょう」

 「行かない。いや、行けないだろ!」

 深呼吸した安寿は懸命になって訴えた。

 「どうか落ち着いてください、航志朗さん」

 怒らせた航志朗の肩に安寿はそっと手を置いた。航志朗は安寿の手をちらっと見てから、目に入ったコンビニエンスストアの駐車場に車を停めた。

 運転席に座ったままでハンドルに突っ伏して航志朗は頭を抱えた。

 「ごめん、安寿」

 「航志朗さん……」

 航志朗の背中をなでながら、安寿は直感で思った。

 (航志朗さんこそ、何か私に隠していることがあるみたい……)

 「ちょっと待っていてくださいね」と言って、安寿は財布を持ってコンビニエンスストアの中に入って行った。やがて、安寿はカップに入ったチョコレートアイスクリームとハイカカオチョコレートとミネラルウォーターを抱えて戻って来た。

 安寿はチョコレートアイスクリームを平たい木のスプーンですくって、航志朗の口の前に運んだ。航志朗は押し黙ったままだ。だが、まったくひるまずに安寿は微笑みながら可愛らしく口を開けて言った。

 「航志朗さん、はい、あーん……」

 思わず目を大きく見開いて航志朗は安寿を見つめた。そして、おずおずと口を小さく開いた。安寿は航志朗の口の中にチョコレートアイスクリームを入れた。素直に航志朗は口にした。すぐにまたスプーンですくって航志朗の口に運ぶ。また航志朗が口にしようとすると、すかさず安寿はスプーンを自分の口の中にぱくっと入れて、いたずらっぽく笑って言った。

 「残念でした!」

 航志朗は力が抜けたように肩を落とし、ふっと笑った。

 ゆっくりとふたりはチョコレートアイスクリームを分け合って食べた。全部、安寿が航志朗に食べさせた。ちらちらと通りがかりのコンビニエンスストアの客たちに見られたが、まったく安寿は気にしなかった。

 ハイカカオチョコレートも安寿が食べさせて、ミネラルウォーターを交互に飲んだ後に、安寿は周辺を見回してから、軽く航志朗の頬にキスして言った。

 「さあ、一緒に今日一日を始めましょう、航志朗さん」

 「そうだな、そうするか……」

 再び航志朗は清華美術大学に向けて車を走らせた。とっくに一限の講義は始まっている。正門の前で安寿はシートベルトを外すと、また周辺を見回してから、航志朗の首に両腕を回して優しくキスした。チョコレートと比べようもないほどの甘いキスだ。航志朗はとろんとした目で安寿を見つめた。

 「航志朗さん、早く帰って来てくださいね。今度の夕食のメニューはコロッケですよ」

 そう言うと安寿は車を降りた。そして、手を振ってから大学の構内へと走って行った。

 呆然と安寿を見送った航志朗は、やがて、幸せそうに顔をほころばせた。

 (安寿、俺は君が愛おしくて愛おしくてたまらない。さっさと仕事を終わらせて、君のところに帰るよ)

 ひと呼吸すると勢いよく航志朗はアクセルを踏んだ。

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