今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 大教室の中に安寿は入った。いつもの席に並んで座る莉子と大翔の後ろ姿が見えた。静かに安寿は莉子の隣に座った。莉子が気づいて小声でささやいた。

 「安寿ちゃん、おはよう」

 大翔もにこっと安寿に笑いかけた。安寿がテキストとノートパソコンを取り出すと、莉子が安寿のテキストをめくった。

 「莉子ちゃん、ありがとう」と小声で言って、安寿は莉子に開いてもらったページに目を落とした。莉子は安寿を沈痛な面持ちで見つめた。

 (安寿ちゃん、岸さんとまたお別れして来たんだね……)

 莉子と大翔は校門の近くに停まっていた車の中で安寿と航志朗が寄り添っていたことに気づいていた。その時、声をかけようとした莉子を大翔が制止した。「莉子、そっとしておいてあげようよ」と言って。

 大教室を安寿は見回した。後期が始まった初日は満席だったが、今や二十人ほどの学生がまばらに座っているだけだ。男子学生は大翔と数名だ。あからさまに黒川の端正な容姿に興味を持ったやや派手な身なりをした女子学生が目につく。

 ふと安寿は壇上の黒川と目が合った。にやりと黒川が笑いかけてきたが、平然と安寿はその視線を受け流した。

 「現代の日本文化の美意識の要素として、この時代の『幽玄』および『枯淡』は重要な意味を持つ」

 黒川の独特な品格のある声が、しんとした大教室に響く。今日の講義は、室町時代中期の東山文化がテーマになっている。

 「禅宗の影響を受けて簡素なものに美を見出す、いわゆる『(わび)』『(さび)』だ。まあ、人の世は(はかな)く無常だということだね。つまり、二十歳そこそこのお若い君たちにはまったく思いも寄らないんだろうけれど、どんなに見目麗しい女性でも年を重ねていけばやがて醜く衰えていき、とどのつまり骨だけになるってことだ」

 いっせいに女子学生たちが嫌な顔をした。

 「そうそう、企業広告に思考停止させられて見た目に有り金をつぎこんでも意味がないってことだよ。無駄なだけだ」

 着物の袖をたぐりよせて黒川は上品に笑った。

 「そこでだ。いやおうなくこの過剰な情報社会に身を置いて、救いはどこにあるのか。やはり、個人個人の『美意識』だよ。自分だけの確固たる『美意識』があれば、自分軸で立てることができる。でもまあ、難しいよね。たいていの人間は、日々どうでもいい近視眼的なことにあくせく貴重な時間を費やして、ぼーっと生きているだけだから。いずれ自分がこの世からいなくなる事実に目をつぶってさ……」

 安寿は黒川の講義内容とは明らかに逸脱した言葉に興味を覚えた。安寿は黒川の漆黒の瞳から目が離せない。黒川は安寿の視線に気づいて、捕らえるように安寿を見据えた。隣に座った莉子が心配そうに安寿を見つめて小声で訊いた。

 「安寿ちゃん、今日のランチどうする?」

 我に返った安寿はあわてて答えた。

 「う、うん、どうしようかな。今日は、お弁当持って来ていないの」

 一限の講義が終了した。黒川は着物を優雅に翻して大教室を出て行った。その後を数人の女子学生が追って行った。顔をしかめた莉子は大翔と顔を見合わせた。

 どうしても黒川の存在を意識してしまっている自分を安寿は自覚した。航志朗を愛おしく想う気持ちとはまったく別の次元だ。初対面の時は背筋がぞっとするような嫌悪感を覚えたはずだ。だが、今はなぜか心が惹かれる。あえて言えば、岸に対する想いに似ている。

 (まさか、私、あのひとのことを慕っているの……)

 思わず安寿は表情を曇らせた。

 



 




 


 


 




 













 
 



 









 





 





 




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