今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 提出期限の前日、暗くなるまで蒼はフランス語の縫製マニュアルを見ながらミシン掛けをしていた。あと三十分でスクールの終業時間だ。蒼は深いため息をついた。また失敗した縫い目を外す。急いで仮縫いを針で縫っていると、左手の人さし指に刺してしまった。すぐに赤い血の点が指先に浮かんだ。右手で頭を抱えながら、蒼はすべてを放り出してどこかに逃げ出したくなった。

 その時だった。蒼の目の前にレースの縁取りがほどこされた白いハンカチが差し出された。驚いて顔を上げると、見覚えのあるクラスメイトが心配そうに蒼の顔をのぞき込んでいた。蒼は久しぶりに誰かの瞳を見つめた。しばらくふたりは見つめ合った。彼女の瞳は真っ青な色をしている。どこまでも透き通った瞳だ。安寿の瞳を思い出す。そのクラスメイトは黙ってハンカチを蒼の指にそっと押し当てた。あわてて蒼は言った。

 「きれいなハンカチが汚れてしまうだろ!」

 クラスメイトは微笑みながら首を振った。そして、かたわらに置かれた蒼のノートにさらさらと美しい文字を書いた。

 お手伝いしましょうか? 

 私の名前は、アンヌ

 あなたのお名前は?

 あわてて蒼は早口で名乗った。

 「俺は、アオイ。……アオイ・ホシノ」

 アンヌは穏やかに首を横に振った。長いまつ毛をしばたかせて少し悲しげな表情だ。蒼はアンヌが日本人の名前が聞き取れないのかと思った。アンヌは頬に人さし指を当てて何かを考えてから、意を決したようにまたノートに書いた。

 私、難聴なの

 耳がよく聞こえない

 アンヌは上品なデザインのハンドバッグの中から補聴器を取り出すと、ブルネットの長い髪をかき上げて両耳に装着した。

 胸の内で蒼は驚きつつもノートに書いた。

  俺の名前は、アオイ・ホシノ

  日本人だ

 微かに驚いた表情を浮かべてから、アンヌはゆっくりと口にした。

 「……ア、オ、イ」

 「そう!」

 なぜか心の底から嬉しくなって、蒼は笑顔になった。蒼がパリに来て心から笑うのは初めてだった。便宜上、愛想笑いは何回もしたが。

 アンヌは蒼の目の前に置いてあったデザイン画をしばらく凝視すると、手慣れた様子でミシンを扱い、あっという間にベールを美しく仕上げてしまった。驚いて蒼は目を見張った。

 心から蒼はアンヌに感謝した。

 「ありがとう、アンヌ」

 アンヌは蒼に可愛らしく微笑んだ。

 「本当に助かった……」

 蒼は日本語でつぶやいた。そして、ほっとしたように蒼がアンヌを見つめると、アンヌは頬を赤らめてうつむいた。

 (彼女、なんとなく安寿に似ている。瞳の色も髪の色も全然違うけど)

 また蒼はノートに書いた。

 君にお礼がしたい

 一緒に帰ろう

 それを読んで、アンヌは嬉しそうに微笑んだ。

 スクールの外に出ると、すぐ近くにあるセーヌ川沿いの露店の花屋に寄った。蒼は色とりどりのバラの花を指さして言った。

 「アンヌ、君はどの色が好き? 手伝ってもらったお礼に君にプレゼントしたいんだ」

 戸惑ったようにアンヌは蒼を見た。あわてて蒼はショルダーバッグからノートを取り出した。すると、アンヌは指をさした。ブルーローズだ。そして、右手の人さし指を立てた。

 「一本だけでいいのか?」

 うんとアンヌはうなずいた。

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