今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第3節

 星野蒼がパリにやって来て、九か月が経とうとしていた。初めての海外での生活は困難を極めた。拙いフランス語でのビザの申請、住居探しから語学学校の登録、銀行口座の開設手続き等と、なんとかこなしてきた。蒼の海外留学に当初から反対していた父からは、「二十歳までの二年以内に結果を出さなければ、仕送りを打ち切る。その時点で、即刻、帰国するように」と厳しく言い渡されていた。

 語学学校では世界中の国々からやって来た学生たちに交じって必死にフランス語を習得した。そして、半年後に当初から目標にしてきたファッションデザインスクールへ無事入学を果たした。スクールは三年間だ。蒼は多額の学費と生活費をどう自力で工面するか悩んでいた。ファミリー企業の社長をしている父から全面的な金銭的援助を受けることに嫌悪感を抱いているからだ。家庭を顧みない父を蒼はずっと憎んできた。いつも蒼の母は陰で泣いていた。蒼が子どもの頃から派手に外で遊んでいた父は浮気をくり返していた。だが、両親は離婚しなかった。なぜなら、現在も母方の祖父は健在でファミリー企業の会長をしているからだ。父は婿養子だ。狡猾に祖父に取り入って父は母と結婚した。父はいまだに祖父に頭が上がらない。蒼はそんな家から一刻も早く自立したいと思っている。それから、家に縛られたままの母を自由にさせてあげたいとも考えている。

 冷え込んできたパリの街を足早に歩きながら、蒼は鉛色の重たい空を見上げて思った。

 (安寿、元気でいるよな。今頃、君はどうしているんだ。きっと、莉子や大翔と一緒に清美大で楽しそうにキャンバスに向かっているんだろうな。……いや、あのひとの腕の中で目を閉じているのかもしれない)

 その光景を思い浮かべて蒼はうつむいた。スニーカーの下のプラタナスの落ち葉がかさかさと乾いた音を立てた。

 大きく蒼はため息をついた。ファッションスクールに入学してから初めての課題の提出期限が近づいている。テーマは植物のモチーフを用いたベールだ。デザイン画はすでに完成している。だが、縫製ができない。スクールのミシンを使って何度も試みたが、まったく思うように使いこなせない。仕方なく手縫いで生地を縫い合わせてみたが、どうしても仕上がりがうまくできない。それに、パリに来てから、蒼はずっと一人きりだった。周りの学生たちとなかなか打ち解けることができなかった。もちろん、言葉の壁もある。だが、それだけではない。うっすらと感じる人種差別。ここに来て初めて、自分が有色人種だということを思い知らされた。

 (大翔、莉子、そして、安寿。皆で一緒に過ごした高校時代がものすごく懐かしいよ。ずっと俺は皆に守られていたんだな)

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