今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 航志朗は客室(ゲストルーム)に案内された。長い回廊をノアの後ろについて行くと、美しいピアノの音色が聞こえてきた。航志朗は思わず感心した。

 (へえ、彼はもう『エリーゼのために』を弾いているんだ……)
 
 客室に入ると航志朗はシャワーを浴びてから、用意してあったガス入りのミネラルウォーターを飲んでひと息ついた。窓の外はすでに真っ暗だ。凪いだ地中海の上には少し欠けた白い月が浮かんでいる。あの安寿の絵を手離したダメージが想定外に自分に襲いかかって来たことに、航志朗は困惑していた。

 (何をするために俺はここに来ているんだ。……ビジネスだろ? それも巨額の金が動くビジネスだ)

 先週、華鶴から今回の父の作品の売却額を聞いた時、航志朗は驚愕した。その売却額の一割の報酬は、航志朗の昨年の年俸の四分の一に匹敵する。

 (だが、どうしてこんなにも俺は胸が苦しくなるんだ……)

 あの男は、今、あの絵を手中に収めて、もてあそんでいるのだろうか。航志朗は心底許せないと思った。歯を食いしばり、航志朗は両方のこぶしを握りしめた。

 客室の電話が鳴った。レトロなデザインの電話機だ。航志朗は少々手こずって受話器を取った。執事のノアからだった。

 『ムッシュ・キシ、おくつろぎのところを大変失礼いたします。本日の晩餐のメニューについておうかがいしたいことがございます。当主はヴィーガンでございまして、動物性食品をいっさい口にしません。当主と同様のメニューでもよろしいでしょうか? もちろん何かご希望がございましたら、なんなりとお申しつけくださいませ』

 「お心遣いをありがとうございます。私は同じメニューで構いません。よろしくお願いいたします」

 『承知いたしました。ご配慮に感謝いたします。では、午後八時にお迎えに参ります』

 航志朗はスマートフォンの時計を見た。午後六時だ。航志朗はスーツケースを開けて黒のタキシードを取り出して着替えた。航志朗がヨーロッパに赴く際は、念のためタキシードを持参している。同席する人物や今夜のドレスコードの見当がつかないが、おそらく失礼には当たらないだろう。そして航志朗はノートパソコンを開いたが、まったく仕事をする気が起きない。早々にあきらめて静かに閉じた。

 航志朗はバルコニーに出て夜風に当たった。潮の香りがする。そして、真っ暗な海を眺めながら今の自分の立ち位置を改めて考えた。

 (俺は、なんのために金を稼いでいるんだ。それは、あの森を取り戻すためだ)

 岸家の裏の森は、航志朗の祖父である岸新之助が逝去した時に売却された。航志朗はその時、十三歳だった。岸家が代々営んできた事業はすでに先細りになっていた。跡継ぎである一人息子の宗嗣はビジネスの才がない。岸は芸術大学卒業後、華々しく人物画家として洋画界にデビューしたものの、ある時期を境に風景画家に転向してからは、妻でありギャラリストでもある華鶴の人脈と采配に寄りかかって収入を得ていた。生前の新之助が内密に抱えていた莫大な負債と多額の相続税の肩代わりに、あの森は華鶴の手によって売却された。よりにもよって華鶴の実兄で、当時の黒川家の当主に。

 (でも、あの日突然、俺の目の前に彼女が現れた。さっき俺は自分の金儲けのために彼女を売った。そして、これからも俺は彼女を売り続けることになる。あの(おんな)と共謀して)

 航志朗はバルコニーの手すりを握りしめた。航志朗の琥珀色の瞳には真っ暗な海の色が浮かんで濁った。そこへ客室のドアをノックする音が聞こえた。航志朗がタキシードの内ポケットに収めてあったスマートフォンを見ると既に八時過ぎになっている。航志朗は手早くボウタイを手結びして客室を出た。
 
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