今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
ノアに案内されて邸宅の最上階にあるサラマンジェに通された。デュボアが一人で窓辺に立っていて航志朗を迎えた。デュボアは白いドレッシーなシャツの上に黒いビロードの襟付きベストを羽織っている。さすがのエレガントな装いだ。微笑みを浮かべたデュボアは航志朗にゆっくりと近づき、航志朗の緊張をほぐすかのように彼のボウタイをほどいた。航志朗は胸が一瞬どきっとした。
「コウシロウ、今夜は久しぶりにとても良い気分だ。君に感謝する」
「こちらこそ、誠にありがとうございます。ムッシュ・デュボア」
デュボアは晩餐の席に着くよう航志朗をうながした。どうやら二人きりの晩餐のようだ。航志朗はシャツの首元のボタンをひとつ外した。ノアがボトルを持ってやって来て、航志朗の手前のワイングラスにボルドーの液体を注いだ。それを一瞥してデュボアが言った。
「私は酒を飲まない。それはワインではなくグレープジュースだ。私のシャトーで特別につくらせているオーガニックジュースだよ。もちろん正真正銘のワインも用意できるが、どうする? コウシロウ」
「いえ、ワインは結構です。私も酒は乾杯の時以外は飲みません」
航志朗とデュボアはグレープジュースで乾杯した。口に含むと熟した葡萄の濃厚な味が広がる。そして、趣向をこらしたヴィ―ガン料理が運ばれて来た。ふたりは静かにそれを口に運んだ。おそらく使われている野菜もオーガニックだ。素材自体の健全な上質さが身体に染み込んでくる。ふたりは何も話さない。おそらくデュボアは沈黙のなかで食事をするのが好みなのだろう。もしくは、いつも一人で食事をしているのかもしれない。航志朗は自分から話さない。尋ねられたことだけに簡潔に答えるという姿勢を保った。
デザートのカシスのソルベを食べ終わると、ティーカップにカモミールティーが注がれた。そしてノアが小さい銀のトレイにグラス一杯の水と数種類のカプセルを持って来て、デュボアのかたわらに置いた。デュボアは「ちょっと失礼」と言って、それを服用した。
「私は生まれつき心臓に欠陥があってね、子どもの頃、医者に長くは生きられないと言われたよ。亡き母はそれを聞いて、よく泣いていたものだ。ところがどうだ、まだ私は生きている。生き続けて八十になろうとしている。人生とは、まったく不可思議なものだね。ムネツグも心臓に持病があると聞いているが、コウシロウ、君は大丈夫なのか?」
「おかげさまで、私は健康そのものです。父の持病は私には遺伝しませんでした」
「それはよかった。神の恩寵だな。君は母親似だね。その瞳の色以外は」
航志朗はその言葉の裏にある淫靡なニュアンスを感じ取った。この男も母と関係を持ったことがあるのかもしれない。だが、そんなことは今の自分にとってはどうでもいいことだ。今、航志朗の胸の内は私情で混乱している。必死に自らの感情をコントロールしようとしているが、この目の前の極上な審美眼を持った男は、航志朗の浅はかな処世術などとっくに見破っているに違いない。航志朗はティーカップを努めて静かにソーサーに置いた。
突然、デュボアは人払いをした。ノアと給仕をしていた二人がサラマンジェを音もなく出て行った。航志朗は身構えた。デュボアはゆっくりとカモミールティーを飲んでから、鋭いまなざしを航志朗に注いで言った。
「コウシロウ、あの絵のモデルの少女の名前を私に教えてくれないか?」
航志朗は冷ややかに即答した。
「ムッシュ・デュボア。大変申しわけございませんが、その名前をお伝えすることはできません」
「なるほど。天使の名前は明かせないか。彼女は君の恋人だね?」
航志朗は答えに詰まった。やはり相手はすべてお見通しだ。
「……彼女は、私の恋人ではありません」
「だが、君は彼女を愛している。心の底から。そうだね、コウシロウ?」
デュボアは航志朗を見すえた。もうこれ以上、自分を取り繕うことはできない。航志朗は目を落としてシャツの首元のボタンをもうひとつ外した。
「はい。おっしゃる通りです」
(そうだ。俺は心の底から彼女を愛している。だからこんなにも苦しいんだ)
航志朗はうなだれた。自らの本心をこんなシチュエーションで思い知らされるとは思ってもみなかった。同時にずっと頭のかたすみで考えていたことを実行しようと航志朗は決意し、顔を上げてデュボアに対峙した。
「ムッシュ・デュボア、あなたにお願いがあります」
「なんだね、コウシロウ?」
「先程お渡しした絵を、いつか私に売っていただけないでしょうか?」
目を大げさに見開き、さも可笑しそうにデュボアは声を立てて笑った。それでも航志朗は体勢を崩さずに目の前の相手をまっすぐ見つめた。
「ああ、失礼。君はとてもユニークなことを言うね。いつか買い戻す? 今の数十倍に跳ね上がってもいいのかな」
「構いません。私はいつかあの絵を買い戻しに来ます。それまで、どうかお手元に置いておいてください」
答えを待たずに、航志朗は席を立った。
「ムッシュ・デュボア、今宵の晩餐を心より感謝いたします。それではこれで失礼いたします。おやすみなさい」
一礼して航志朗は客室に戻ろうとしたが、デュボアが官能的な笑みを浮かべながら、航志朗の背中に向かって言った。
「コウシロウ、……私の『永遠の恋人』に会うかい?」
航志朗は立ち止まって振り返った。
「『永遠の恋人』、……ですか?」
「そうだ。ムネツグが十九年前に描いた絵だ。おそらく君はまだ見ていないね」
航志朗はその言葉に胸の奥がざわついたが、それが意味することを考えるには航志朗はすでに疲れきっていた。「すいませんが、お先に下がらせていただきます」と言い残し、航志朗は客室に戻った。
「コウシロウ、今夜は久しぶりにとても良い気分だ。君に感謝する」
「こちらこそ、誠にありがとうございます。ムッシュ・デュボア」
デュボアは晩餐の席に着くよう航志朗をうながした。どうやら二人きりの晩餐のようだ。航志朗はシャツの首元のボタンをひとつ外した。ノアがボトルを持ってやって来て、航志朗の手前のワイングラスにボルドーの液体を注いだ。それを一瞥してデュボアが言った。
「私は酒を飲まない。それはワインではなくグレープジュースだ。私のシャトーで特別につくらせているオーガニックジュースだよ。もちろん正真正銘のワインも用意できるが、どうする? コウシロウ」
「いえ、ワインは結構です。私も酒は乾杯の時以外は飲みません」
航志朗とデュボアはグレープジュースで乾杯した。口に含むと熟した葡萄の濃厚な味が広がる。そして、趣向をこらしたヴィ―ガン料理が運ばれて来た。ふたりは静かにそれを口に運んだ。おそらく使われている野菜もオーガニックだ。素材自体の健全な上質さが身体に染み込んでくる。ふたりは何も話さない。おそらくデュボアは沈黙のなかで食事をするのが好みなのだろう。もしくは、いつも一人で食事をしているのかもしれない。航志朗は自分から話さない。尋ねられたことだけに簡潔に答えるという姿勢を保った。
デザートのカシスのソルベを食べ終わると、ティーカップにカモミールティーが注がれた。そしてノアが小さい銀のトレイにグラス一杯の水と数種類のカプセルを持って来て、デュボアのかたわらに置いた。デュボアは「ちょっと失礼」と言って、それを服用した。
「私は生まれつき心臓に欠陥があってね、子どもの頃、医者に長くは生きられないと言われたよ。亡き母はそれを聞いて、よく泣いていたものだ。ところがどうだ、まだ私は生きている。生き続けて八十になろうとしている。人生とは、まったく不可思議なものだね。ムネツグも心臓に持病があると聞いているが、コウシロウ、君は大丈夫なのか?」
「おかげさまで、私は健康そのものです。父の持病は私には遺伝しませんでした」
「それはよかった。神の恩寵だな。君は母親似だね。その瞳の色以外は」
航志朗はその言葉の裏にある淫靡なニュアンスを感じ取った。この男も母と関係を持ったことがあるのかもしれない。だが、そんなことは今の自分にとってはどうでもいいことだ。今、航志朗の胸の内は私情で混乱している。必死に自らの感情をコントロールしようとしているが、この目の前の極上な審美眼を持った男は、航志朗の浅はかな処世術などとっくに見破っているに違いない。航志朗はティーカップを努めて静かにソーサーに置いた。
突然、デュボアは人払いをした。ノアと給仕をしていた二人がサラマンジェを音もなく出て行った。航志朗は身構えた。デュボアはゆっくりとカモミールティーを飲んでから、鋭いまなざしを航志朗に注いで言った。
「コウシロウ、あの絵のモデルの少女の名前を私に教えてくれないか?」
航志朗は冷ややかに即答した。
「ムッシュ・デュボア。大変申しわけございませんが、その名前をお伝えすることはできません」
「なるほど。天使の名前は明かせないか。彼女は君の恋人だね?」
航志朗は答えに詰まった。やはり相手はすべてお見通しだ。
「……彼女は、私の恋人ではありません」
「だが、君は彼女を愛している。心の底から。そうだね、コウシロウ?」
デュボアは航志朗を見すえた。もうこれ以上、自分を取り繕うことはできない。航志朗は目を落としてシャツの首元のボタンをもうひとつ外した。
「はい。おっしゃる通りです」
(そうだ。俺は心の底から彼女を愛している。だからこんなにも苦しいんだ)
航志朗はうなだれた。自らの本心をこんなシチュエーションで思い知らされるとは思ってもみなかった。同時にずっと頭のかたすみで考えていたことを実行しようと航志朗は決意し、顔を上げてデュボアに対峙した。
「ムッシュ・デュボア、あなたにお願いがあります」
「なんだね、コウシロウ?」
「先程お渡しした絵を、いつか私に売っていただけないでしょうか?」
目を大げさに見開き、さも可笑しそうにデュボアは声を立てて笑った。それでも航志朗は体勢を崩さずに目の前の相手をまっすぐ見つめた。
「ああ、失礼。君はとてもユニークなことを言うね。いつか買い戻す? 今の数十倍に跳ね上がってもいいのかな」
「構いません。私はいつかあの絵を買い戻しに来ます。それまで、どうかお手元に置いておいてください」
答えを待たずに、航志朗は席を立った。
「ムッシュ・デュボア、今宵の晩餐を心より感謝いたします。それではこれで失礼いたします。おやすみなさい」
一礼して航志朗は客室に戻ろうとしたが、デュボアが官能的な笑みを浮かべながら、航志朗の背中に向かって言った。
「コウシロウ、……私の『永遠の恋人』に会うかい?」
航志朗は立ち止まって振り返った。
「『永遠の恋人』、……ですか?」
「そうだ。ムネツグが十九年前に描いた絵だ。おそらく君はまだ見ていないね」
航志朗はその言葉に胸の奥がざわついたが、それが意味することを考えるには航志朗はすでに疲れきっていた。「すいませんが、お先に下がらせていただきます」と言い残し、航志朗は客室に戻った。