今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 その日の午後、芸術大学を辞する父を伊藤と車で迎えに行った。その日は、中学二年の修了式があった。航志朗は私立中学の詰襟の制服を着ていた。襟には平和の象徴である鳩がデザインされた校章をつけていた。

 父の研究室に行くと、まだ荷物が残っていた。デスクの上に置いてあった段ボール箱を伊藤は運び出した。父は顔を出した年老いた教授らしき男と立ち話をし始めた。長くなりそうだった。航志朗は研究室がある建物を出て車に戻ろうとした。なんとなく校庭を見ると、十数人の子どもたちがおのおの画板の上に画用紙を置いて何かをスケッチしていた。その周りでは大学生らしき数人の若い男女が子どもたちを後ろから見守っていた。子ども向けの春のワークショップを催しているようだった。

 大学生たちは口ぐちに子どもたちに声をかけていた。「上手に描けているね」とか「とてもきれいな色使いだね」とか、空々しい言葉が耳に入ってきた。思わず航志朗は吐き気がした。全然わかっていないと腹立たしく航志朗は思った。花壇の周りにレジャーシートが敷いてあって、子どもたちはその上に座って絵を描いていた。花壇には色とりどりのチューリップが植えられていた。鉛筆で下書きをしてから水彩絵具で色を塗っている。大学生の一人が「咲いた、咲いた、チューリップの花が……」と口ずさみながら、パレットの上に青色と黄色の絵具を混ぜて緑色を作った。子どもたちは目を丸くして驚いた。「なるほどね」とぶっきらぼうに航志朗はつぶやいた。

 突然、離れたところで一人きりで絵を描いている子どもの姿が、航志朗の琥珀色の瞳の中に飛び込んできた。それは、小さな女の子だった。黒髪を肩の長さのボブカットにした女の子は、上品なネイビーのワンピースを着てそのまま地面の上に座っていた。すでに彼女の尻は砂で白くなっていた。周りには誰もいない。なぜか心惹かれて、吸い寄せられるように航志朗はその女の子に近寄って行った。

 女の子は航志朗が後ろに立って見下ろしていることにまったく気がつかなかった。後ろ姿だけでも彼女が絵を描くことに集中していることがありありと伝わってきた。だが、彼女の目の前には何もない。ただ下を向いて、一心に何かを描いていた。航志朗は不可思議に思った。しばらく彼女の背中を見つめていたが、思いがけず声をかけてしまった。

 その女の子の返事に航志朗は凍りついた。そして、幼い彼女の絵に、ただただ圧倒された。それは、航志朗にとって初めての経験だった。自分がこれまでに描いてきた絵はなんだったんだろうと思わせられた。いや、かつての自分にも彼女のように凄まじい絵が描ける力が確かにあったはずだ。だが、それはもう失われてしまった。自分で捨ててしまったのか、誰かに奪われたのかはわからない。呆然と航志朗はその場に立ち尽くした。

 ずっと仏頂面をしていた女の子が立ち上がった。かなりの身長差がある。だが、彼女は物おじもせずに航志朗をまっすぐな瞳で見上げた。どこまでも透き通った黒い瞳だった。その瞳のなかに自分の姿が映った。その時、航志朗はその女の子に選ばれたという確信めいた歓喜にも似た気持ちを抱いた。

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