今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ふたりはしばらく見つめ合っていた。女の子の左頬には白い絵具がついていた。それは羽根のような形をしていて、何かのしるしのようだった。

 その時、遠くから声がした。彼女の名前を誰かが呼んだ。今まで聞いたことがない不思議な名前だった。女の子は声がする方向を見て、大きく手を振った。航志朗がその視線の先を追うと、遠くに彼女の両親らしき若い男女の姿が見えた。彼女が行ってしまう、そしてもう二度と会えないかもしれないと航志朗は切実に思った。一年前の大雪の日に、屋敷の門の前で会った長い黒髪の美しい女の姿を思い出した。あわてて航志朗は小さな女の子に言った。

 「いつかまた会おう。また君の絵を見せてほしい」

 仏頂面をしたままで、女の子は小さくうなずいた。そして、彼女は言った。

 「あげる」

 「ん?」

 航志朗はわけがわからなかった。

 女の子は画板から絵を外して、航志朗の目の前に突き出した。

 「この絵、あげる」

 突然の女の子の申し出に戸惑い、航志朗は動けなかった。

 女の子は航志朗の手を取ると、絵を航志朗に持たせた。とても小さいが力強い手だった。そして、その手は絵具まみれになっていた。よく見ると、彼女のよそいきらしい新品同然のワンピースの袖にも裾にも絵具があちらこちらに飛び散っていた。

 (あーあ。お母さんに叱られるんじゃないのか)

 心の底から航志朗は可笑しくなって思わず声を出して笑ってしまった。それは航志朗にとって久しぶりの笑顔だった。航志朗は制服のポケットからハンカチを取り出すと、女の子の頬についた白い絵具を拭いてあげた。真っ赤になった女の子は懸命な様子で航志朗にはにかむと背を向けて、画板と絵具セットを抱えて走り去って行った。結局、その女の子の名前はわからずじまいだった。

 その一年後、イギリスに旅立つ前に航志朗は彼なりに身辺整理をした。もうこの生まれ育った家に戻って来るつもりはなかった。だが、あの女の子にもらった絵だけはどうしても捨てられなかった。航志朗は最後まで残った私物と自作の絵を入れた箱の底にその女の子の絵を収めた。そして、クローゼットの扉を閉じるのと同時に自らの心を閉じて、今までのすべてを忘れ去ろうとした。──この世界で生き延びるために。

 開いたままの安寿の部屋のドアから、からんからんと軽い音を立てて咲が入って来た。咲が手に持ったトレイの上には氷の入ったアイスコーヒーがのせられている。くすっと咲は目を細めて微笑んだ。航志朗が安寿のベッドの上で大きな身体を丸めて横になって寝息をたてている。心から咲は思った。

 (航志朗坊っちゃんったら、立派な一人前の大人の男性に見えても、まだまだ小さな男の子なのね……)

 咲はカーペットに目を落とすと、あの箱のふたが開けられていることに気づいた。胸を突かれて航志朗の顔をのぞき込むと、航志朗の閉じた目頭に涙がわずかにたまっていた。咲はエプロンの裾でそっとそれをぬぐって、自分の目も拭いた。そして、静かに咲は部屋を出て行った。



 
 




   







 
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