今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 やがて、航志朗がうっすらと目を開けたが、まだ眠たそうだ。重いまぶたをなんとか上げて、航志朗はかすれた声で言った。

 「安寿、……ただいま」

 疲れきった航志朗の顔を見て、安寿の心はひどく痛んだ。だが、努めて笑顔を作り安寿は微笑んだ。
 
 「おかえりなさい、航志朗さん」

 航志朗はその琥珀色の瞳を光らせた。ぎゅっと安寿を力を込めて抱きしめるが、急にあせった様子で身体を離して謝った。

 「安寿、ごめん。俺、汗臭いだろ? おとといの夜からシャワーを浴びてないから」

 ゆっくりと安寿は首を横に振った。そして、しばらく見つめ合ってから、ふたりはそっと唇を重ねた。

 航志朗が照れくさそうに言った。

 「こういう時って、日本語でなんて言うんだろうな。二回目の結婚記念日おめでとう? なんだかおかしいな」

 航志朗の腕の中で肩を震わせて安寿は笑った。

 ときどき安寿は疑問に思う。

 (それにしても、航志朗さんて、日本語と英語のどちらで考えているんだろう?)

 安寿はにっこり笑って言った。

 「結婚記念日おめでとうございます。それよりも、航志朗さん、お誕生日おめでとうございます」

 「ありがとう、安寿。君と出会ってから、……十四回目の誕生日だな」

 航志朗は愛おしそうに安寿の左頬にそっと手を触れた。

 安寿は不思議そうな表情を浮かべて尋ねた。

 「私たちが初めて出会ったのは、私が十六歳の時だったから四回目ですよね?」

 「いや、十四年前なんだよ。君と俺が出会ったのは」

 そう航志朗はつぶやくと目を閉じた。

 「……航志朗さん?」

 すうすうと音を立てて航志朗はまた眠ってしまった。

 (どういうことなの。十四年前? 私が六歳の時……)

 安寿はさっぱりわけがわからなかった。

 安寿は航志朗の腕の中でまた眠ろうとしたが、安寿の身体はもう起きてしまっていた。安寿は、今、ここで、航志朗と一緒にいることを実感する。身体じゅうが震えて心がきしんで痛くなるほどに。もう航志朗は自分にとって無くてはならない存在なのだ。いずれ離婚して会えなくなっても、航志朗がこの世界のどこかにいてくれるだけでいいと心の底から思う。航志朗の存在そのものが、今の私の救いなのだから。

 その時、安寿は黒川が言っていた恐ろしい言葉を思い出した。疲れ果てて眠った航志朗の寝顔を見つめながら、真剣に安寿は考えた。

 (私が航志朗さんのためにできることが、きっと何かある。「それ」をあのひとは知っている。だから、私、あのひとに「それ」を訊きに行かなくちゃ)

 急に心の奥底が騒めいて安寿は顔色を曇らせた。

 (もし、私が「それ」をしたら、航志朗さんに嫌われるかもしれない。それどころか憎まれるかもしれない。でも、私は「それ」をしなくてはいけない気がする。……航志朗さんを守るために)

 眠っている航志朗の頬にそっとキスして、静かに安寿はベッドルームを出て行った。

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