今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第4節

 二回目の安寿と航志朗の結婚記念日が、明日やって来る。航志朗の二十八歳の誕生日でもある待ちに待った日だ。この数週間、安寿は、航志朗への誕生日プレゼントと彼に頼まれた二枚の小さな油彩画を毎日こつこつと制作していた。安寿はその三枚の作品をシンプルな無地の包装紙にそれぞれ丁寧に包んで、お泊りセットと一緒にマウンテンリュックサックに詰めた。

 土曜日の夕方に岸のモデルの仕事が終わった後、安寿は明日まで待ちきれずに航志朗のマンションに向かった。航志朗が何時にどこから帰国するのか知らされていない。安寿は夜遅くまでダイニングテーブルの上にノートパソコンを開けて、大学のレポートを書いていた。気づいたら午前二時になっていた。結局、航志朗は結婚記念日の前日には帰って来なかった。マンションのベッドルームの窓から夜空を見上げて、今、彼はどこにいるんだろうと思いながら、ひとりで安寿はベッドにもぐり込んで目を閉じた。

 結婚記念日の前日の午後十一時すぎに、航志朗を乗せた飛行機はシンガポールを離陸した。次々に依頼される仕事が立て込んでいて、本当は帰国どころではなかった。だが、安寿との大切な結婚記念日だ。昨年の初めての結婚記念日はアイスランドに滞在していて、会うことすらできなかったのだ。かなり無理をして航志朗は飛行機に飛び乗った。東京へ向かう午前零時をすぎた機内は照明が落とされて、しんと静まり返っている。低い風切り音が聞こえてくるだけだ。乗客のほとんどがブランケットに身をくるんで目を閉じている。エコノミークラスの最後尾の窓側に座った航志朗は、手元の読書灯をつけずに徹夜でノートパソコンに向かい合っていた。航志朗はほとんど音を立てずにキーボードをなめらかに打った。まるでピアノを弾くかのように。エキゾチックなバティック柄の制服を着たキャビンアテンダントが、気の毒そうな表情を浮かべながら何回もコーヒーを運んでくれた。その度に航志朗は爽やかな笑顔で礼を言った。

 そのキャビンアテンダントはふと目にした。あのマナーのよいハンサムな客が小窓の外を見ながら、彼の左手の薬指につけられた結婚指輪にキスしていた。思わず頬を赤らめて彼女は微笑んだ。このフライトの仕事が終わったら、彼女には結婚式が待っているのだ。彼女は初恋のひとであるフィアンセの顔を幸せそうに思い浮かべた。

 午前六時半に航志朗は羽田空港に到着した。それから、タクシーに乗ってマンションに着いた。飛行機を降りてからずっとあくびが止まらない。

 (とりあえず仮眠するか。一刻も早く安寿に会いたいけれど)

 マンションの玄関ドアを開けると、きちんと揃えられた黒革のレースアップシューズが航志朗の目に入った。

 (安寿が来ている!)

 顔をほころばせてリビングルームに入ると、勢いよく航志朗は声をあげた。

 「安寿、ただいま!」

 そこに安寿はいなかった。だが、部屋のすみに安寿のマウンテンリュックサックが確かに置かれている。そして、ダイニングテーブルの上には、大学入学祝いに贈った白いノートパソコンが開いている。すぐに航志朗は階段を駆け上がった。念のため音を立てずにベッドルームのドアを静かに開けると、朝の光がレースカーテンを通して降りそそぐベッドの上で安寿が眠っている姿が見えた。

 「ただいま、……安寿」

 ほっとして全身の力が抜けた航志朗は小声でつぶやくと、横向きで眠っている安寿の後ろに寝そべった。安寿の背中に顔を寄せると、柔らかい温もりと穏やかな息づかいを感じる。大あくびをしてから航志朗は目を閉じた。

 「ん……」

 目を開けたとたんに安寿は驚いた。

 「えっ!」

 すぐに安寿は微笑みを浮かべた。腰に手が置かれている。その薬指には結婚指輪が白く光っている。

 「航志朗さん……」

 安寿はその手を握りしめた。我慢できずに向き直り、安寿は航志朗に抱きついた。航志朗はぐっすりと眠っている。とろけるような航志朗の匂いに交じって、ココナッツのような南国のフルーツの甘い香りが微かにする。航志朗の胸に顔をうずめて安寿は思った。

 (彼、シンガポールから帰って来たんだ。シンガポールって、どんなところなんだろう……)

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