今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 千里とビルディングの裏手に行くと、容がシルバーのセダンの前に立っていた。容は後部座席のドアを開けて、「どうぞ、安寿さん」と少し頭を下げて丁重に言った。安寿は千里にお辞儀をすると車に乗り込んだ。

 車が発進すると、すぐに容は安寿に尋ねた。

 「安寿さんは車酔いをされるほうですか?」

 「いいえ、大丈夫です」

 「それはよかった。もし何かありましたら、遠慮なく僕に言ってくださいね」

 「はい。ありがとうございます」

 安寿は初めて岸家へ行った時に、伊藤に車酔いのことを訊かれたことを思い出した。

 (あれからずいぶんと時間が経ったんだ。この四年間、本当にいろいろなことがあった……)

 容は運転上手で、まるで航志朗が運転しているかのように快適だった。安寿は安らいだ気持ちになってきた。朝からずっと緊張していた心がほぐれてくる。ふと安寿は思いついて容に尋ねた。

 「容さんは、いつから日本画を描かれていらっしゃるのですか?」

 ぷっと吹き出してから容は明るい笑い声を立てた。

 「安寿さん、覚えていませんよ。うちは代々日本画の画材屋ですからね。まあ、赤ちゃんの頃からでしょう。僕はアメリカで生まれたのですが、気が向くと僕の母は日本画を描いていたので、常に僕の周囲には日本画の画材がありました。赤ちゃんが岩絵具を口にしたら、かなりまずいことになっていたのでしょうが、まあおかげさまで、この通り無事に成長できました」

 思わず安寿はくすくすと笑った。そして初めて会ったばかりの容を信頼できる人だと思った。安寿の笑顔をバックミラーで盗み見て、また容は顔を赤らめた。

 岸邸のロートアイアンの門の前に到着した。車を降りる時、安寿は礼を言った。

 「ありがとうございました。また大学でお会いしましょう、容さん」

 容は大きく手を振ってから車を出した。

 銀座に戻りながらハンドルを握った容は深くため息をついて思った。

 (安寿さんて、本当に可愛いひとだなあ。まだ二十歳なのにもう結婚しているなんて信じられないよ。それにしても、どうして航志朗さんは安寿さんと離れて暮らしているんだ。わけがわからない)

 咲がつくっておいてくれた夕食を温め直して食べてから風呂に入って、安寿は自室に戻った。安寿はくたくたに疲れていた。ベッドに座って手鏡で首筋を見た。赤く跡がついていて安寿は唇を噛んだ。

 (でも、明日も早起きして鎌倉に行かなくちゃ)

 ふと安寿は思い出して、黒革のショルダーバッグの中から千里に手渡された白い巾着袋を取り出した。何か液体のようなものが入っている。安寿は袋を開いた。中には小学生が書道の時間に使うようなごくありふれた墨汁のボトルが入っていた。

 不思議そうに墨汁を見つめてから、安寿はショルダーバッグの中に巾着袋を収めた。

 バルコニーに立って安寿は夜空を見上げた。重い雲が立ちこめていて月は見えない。安寿は見えない月に向かって祈るように心のなかでつぶやいた。

 (航志朗さん、私は黒川家のお屋敷であなたに内緒で絵を描きます。あなたのお役に立てるように精いっぱいがんばりますね……)
 





 



 

 




 









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