今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第2節

 次の日の朝、安寿は午前五時前に黒いリネンワンピースを着て自室を出ると、朝食を済ませてから岸家の裏の森へ向かった。アトリエがある離れのわきを通ったが、どの窓も閉まっている。まだ岸は眠っているのだろう。

 ゆっくりと明るくなっていく森の小道を安寿は手を泳がせながら歩いた。両方の手のひらに森の生気を吸収するかのように。池のほとりにたどり着くと、安寿は大きな樫の木の根元のくぼみに座って灰色の池を眺めた。

 今朝は風がなく鏡面のように静かな水面だ。森を見回してすみずみまで目に焼きつける。樹々の枝ぶり、葉の葉脈、木肌に付着する俯瞰した森の絵を描いたような苔までじっくりと眺めた。

 安寿は空を見上げた。今日も曇り空だ。そこへ一羽のカラスが迷いなく一直線に飛んで行くのが見えた。黒光りするしなやかな肢体の若いカラスだった。航志朗の姿を思い浮かべた安寿は目を閉じた。

 (そろそろ、行かなくちゃ)

 目を開けて安寿は立ち上がった。

 「え?」

 突然、何かが鳴いた小さな声に気づいた。辺りを見回してから安寿は耳をすました。

 「……ニャーン」

 その時、猫の微かな鳴き声が聞こえた。安寿は振り返った。樹々の陰にうずくまっている小さな子猫を見つけた。白い猫のようだが、全身が茶色く薄汚れている。また安寿は周辺を見回したが、他に猫の姿はない。

 安寿は子猫の目の前にしゃがんで尋ねた。

 「あなたのママは、どこにいるの?」

 やせ細った子猫がかすれた声で鳴いた。

 「あなた、お腹が空いているんじゃない?」

 そっと安寿が両手を差し出すと子猫はよたよたと安寿の手のひらの中に身を寄せて来た。安寿は子猫を抱き上げた。見た目よりもずっと軽くて驚いてしまった。安寿は小走りで屋敷に向かった。腕の中の小さな生き物は生温かくて、安寿は切ない気持ちになった。

 安寿は子猫を胸に抱いたまま、岸家のエントランスに入った。屋敷には誰もいない。一瞬、誰かに許可を取るべきなのだろうかと安寿は思ったが、自分を見つめる子猫のつぶらな瞳を見るとそのまま台所にまっすぐ向かった。

 安寿は片手で子猫を抱きながら、冷蔵庫から牛乳を取り出してボウルに注いだ。急に思いついて、オーブンレンジで牛乳を人肌の温度に温めた。子猫を床に降ろしてボウルを差し出すと、子猫は安寿を見上げた。安寿は優しく微笑んで言った。

 「どうぞ。お腹が空いているんでしょ、遠慮しないで」

 子猫はぴちゃぴちゃと音を立てて、白いしずくをまき散らしながら夢中になって牛乳を飲んだ。

 子猫は満足した様子で台所の床に寝そべった。やせ細った身体にぽっこりと白い腹がふくらんでいる。安寿は困ってしまった。少し考えてから子猫を洗面台に連れて行き、けがをしていないかよく確かめてから、ぬるま湯を出して子猫の身体を洗った。排水溝に流れていく湯がきれいになっていくとペーパータオルで拭いた。始終、子猫は嫌がらずに気持ちよさそうに安寿のなすがままになっていた。実際の子猫は真っ白な毛並みをしていた。

 もう一度、安寿は子猫を抱いて台所に連れて行った。またボウルに牛乳を注ごうとすると子猫は歩き出した。

 「もうお腹いっぱい?」

 安寿は子猫を追いかけた。迷わずに子猫はエントランスに行って玄関ドアの前に座った。「今、開けるね」と言って安寿がドアを開けると、一度、子猫は安寿に向かって長く鳴いてから、安寿の目の前から走り去って行った。

 「私にお礼を言ってくれたみたい」と安寿は嬉しそうにつぶやいた。

 それは夢の続きを見ているようなふんわりとした出来事だった。安寿は首を傾けながら後片づけをした。そして、予定よりも一時間遅れで黒川家に向かった。

 鎌倉へ向かう行きの電車は大変混んでいた。大きな手荷物を抱えた人びとが目についた。おそらく連休中にどこかへ旅行に出かけるのだろう。小さい子どもたちを連れた若い夫婦やカップルは微笑み合って楽しそうだ。

 品川駅で空いた座席に座ると、安寿はうとうとし始めた。昨夜よく眠れなかったのだ。何回も短い夢を見た。どの夢も何かの絵を描いている夢だった。安寿が絵を描く後ろには、誰かが静かに立っている気配がした。振り返ってそのひとが誰なのか確かめたかったが、それはできなかった。その夢の世界では許されていなかったからだ。そのひとが航志朗さんだったらいいなと夢うつつに安寿は思った。

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