今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 再び安寿は日曜日と水曜日と金曜日の午後に黒川家に赴いて襖絵を描き始めた。

 一か月ぶりに会った黒川は相変わらずだった。

 「安寿さん。華鶴おばさまから聞いたよ。航志朗くんとずっと熊本に行っていたんだって? 君たちはお若いから、さぞや毎日寝不足だったんだろうね。毎晩、彼と……」

 黒川をにらんで安寿は仏頂面をした。

 そのまま安寿は思ったことを口に出して言った。

 「皓貴さん、あなたにはまったく関係のないことです」

 黒川は片眉を上げて言った。

 「関係ない? そんなことはないだろう。子どもができたらどうするんだ? 大学に通えなくなるし、この襖絵を描けなくなる」

 「それは絶対にありませんので、ご心配なく」

 平然とした様子を装って、安寿は画筆を持ってまた描き始めた。航志朗と別れてからもきちんと生理は来ている。本当にその心配はない。だが、安寿は心穏やかではなかった。一年ぶりに会った恵からも子どものことを訊かれた。「安寿、子どもはどうするの?」とストレートに。安寿は「まだ学生だから、考えていない」とだけ答えた。叔母にうそはついていない。

 一歳を過ぎた敬仁(はやと)は、ますます可愛らしくなっていた。抱っこをせがまれて抱き上げるとにっこりと笑いかけられて安寿の胸はきゅんと音を立てた。敬仁は歩くこと自体がとても楽しいらしく、何回も転びながらも笑顔で起き上がり、彼の思うままにまた歩き出した。それはどこまでも行ってしまいそうなまばゆい勢いだった。

 そんな敬仁を航志朗は楽しそうに笑いながら追いかけていた。そんなふたりの後ろ姿を見て、どうしても安寿は頭のなかで想像してしまった。

 (もし、私たちの子どもが生まれたら、こんな感じになるのかな……)

 その甘美な未来を安寿はあわてて打ち消した。

 (私は何を考えているの! そんな未来は絶対に来ないのに)

 いったん画筆を下ろして、安寿は黒川家の広間を見渡した。思わず安寿は深くため息をついた。古閑家のルリのアトリエの奥の間どころの広さではない。ぐるりと囲まれた白い襖はいったい何十枚あるのだろう。恐ろしくて数えられない。安寿は気が遠くなってきた。

 (襖絵を完成させるのに、いったいどのくらいの時間がかかるのだろう)

 ひとつだけ確かなことは、そのタイムリミットが航志朗と離婚する日までだということだ。とにかく画筆を前へ進めるしかない。何かに向かって敬仁が歩き始めたように。

 安寿は目を閉じて岸家の裏の森を思い浮かべた。樹々の間を駆けて森の奥へと分け入る。やがて、たどり着いた池のほとりに誰かが立っているのが見えた。心から懐かしく、そして愛おしく思えるひとだった。それは、きっと航志朗だ。安寿はその人影に手を伸ばしたがどうしても届かない。ひどく胸の奥がきしんで、その痛みに安寿は身体じゅうをこわばらせて耐えた。いつしか池のほとりに乳白色の靄がかかりはじめ、その人影は薄くなって消えてしまった。

 広間のすみでは太い柱に寄りかかった黒川が身じろぎもせずに安寿を見つめていた。襖絵を描き始めてからずっと安寿と黒川は同じ空間で同じ空気を吸っている。黒川の身体が醸し出す独特な匂いにはもう慣れた。安寿はどうしても黒川に「一人にしてください」と言い出せなかった。この何もない空虚なだだっ広い空間が、実は恐ろしかったのだ。

 安寿は天井を見上げて想いを馳せた。

 (今、航志朗さんはどこにいて、何をしているんだろう……)

 金曜日の夜は、深夜零時を回って岸家に帰宅した。伊藤からは夜遅くなったら必ずタクシーを使って駅から帰って来るようにと言われているが、安寿は自転車に乗って住宅街を通って帰った。この自転車は航志朗が中学生の時に使っていたものだ。駅から航志朗と一緒に帰っていると思えば、夜道も怖くはない。

 (この彼の自転車に私は守られている。……きっと)

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