今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 次の日の土曜日はいつものように午前六時に起きた。四時間弱しか寝ていない。咲が用意してくれた朝食をあわただしくいただくと、咲に振袖を着付けてもらった。

 すぐに咲は安寿の寝不足の様子に気づいた。

 (安寿さま、昨日も遅いご帰宅だったのね。勉学に励まれていらっしゃるのは感心だけど、お身体が本当に心配だわ……)

 だらしなくあくびをしてしまう口を押さえながら、赤紅色の振袖をまとった安寿は岸のアトリエに向かった。すでに岸はキャンバスに向かって画筆を動かしていた。

 「おはようございます、岸先生」

 「安寿さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 「岸先生、こちらこそよろしくお願いいたします」

 午前中のまだ新鮮な陽の光に照らされた安寿は画家と真っ向から対峙した。画家は安寿を真摯に見つめて画筆をキャンバスに走らせる。いつもの小気味よい澄んだ音がアトリエの中に放たれる。

 ときどき岸は白髪が目立ちはじめた前髪をかき上げて油絵具を補充する。その岸の琥珀色の瞳が優しくしばたたく。だんだん安寿の目には岸の姿が航志朗に見えてきた。安寿は目を微かに潤ませて愛おしそうに岸を見つめてしまう。岸は安寿の艶やかなまなざしに気づき、下を向いて咳払いをした。急に我に返った安寿が腰を浮かして岸を気遣うと、安寿の長い黒髪が着物の前身頃にこぼれ落ちた。

 静かに岸は立ち上がって安寿に近づいた。「失礼、安寿さん」と言って、岸は安寿の胸に掛かった髪にそっと触れて、その髪を肩の後ろにそっと置いた。思わず安寿はその岸の手を握ってしまった。それはとても温かい手だった。あわてて安寿は岸の手を離して顔を赤らめてうつむいた。

 (航志朗さんの手じゃない。私、何をしているの)

 驚いた顔をして岸は安寿を見下ろした。安寿が離した岸の手が一瞬持ち上がったが、その手は行き場を失って空をさまよった。岸は安寿に背を向けてキャンバスの前に戻った。そして、再び画筆をキャンバスの上に落とす。

 その時、岸の耳の奥で誰かがささやいた。

 「宗嗣さん……」

 忘れようにも忘れられない声なき声だ。突然、画筆を床に落として、岸は頭を抱えた。アトリエの床に血がついたように真っ赤なしみが浮かんだ。

 「岸先生?」

 すぐに安寿は立ち上がって岸のそばに来てしゃがんだ。

 顔を青ざめてうずくまった岸の背中に手を置いて、安寿は眉をひそめて尋ねた。

 「岸先生、大丈夫ですか」

 岸は顔を上げると、安寿の顔を見てわずかに微笑んで言った。

 「……大丈夫です。安寿さん」

 床に転がった画筆を手に取って、安寿はパレットの上に丁寧に置いた。パレットの上はバラの花が咲いたように真っ赤に染まっている。

 「そろそろ昼食の時間ですね。私は部屋で休みますので、安寿さんは食事をしてきてください。また午後からお願いします」

 岸は落ち着いた声でそう言うと、静かに立ち上がってアトリエを出て行った。

 一人になった安寿は、岸のキャンバスを見つめてつぶやいた。

 「なんて美しいの。……私じゃないみたい」

 そうつぶやくと、岸の絵の前に安寿はただ立ち尽くした。

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