今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第3節

 年が明けて正月の朝が来た。咲に着付けてもらった若葉色の訪問着をまとって長い黒髪を清楚なまとめ髪にした安寿は、白い割烹着を着て食事室のテーブルにおせち料理を並べていた。食事室の窓から正月の晴れ渡った清々しい青空を見上げて、安寿は深いため息をついた。

 昨日の大みそかの夜遅くに岸の作品が完成した。赤紅色の振袖姿の安寿の絵は、まだ岸のアトリエのイーゼルに立て掛けられてある。油絵具の乾燥時間は一週間ほどかかる。オアフにいる華鶴が伊藤から完成の報告を受けてデュボアに交渉し、岸の作品が譲渡される日程が延期された。それと同時に航志朗の東京での滞在日程も延長された。

 パリ現地時間の年内最後のビジネスアワーになんとか仕事の予定を調整した航志朗は小躍りして喜んでいたが、あわてて安寿は黒川にひそかにメールを送った。正月明けには黒川家での襖絵の制作を再開するつもりだったのだ。だが、まだ黒川から返信が来ていない。

 (きっと皓貴さんはメールを読んだはず。あのひと、返信をしないひとなのかもしれない)

 「安寿、どうだ似合うか?」

 隣のサロンから航志朗の明るく弾んだ声が聞こえた。すぐに安寿はサロンに顔を出した。航志朗は咲に着物を着付けてもらっていた。銀色に近い光沢のある鉛色の見るからに威厳のある着物だ。それは航志朗の祖父の岸新之助が晩年に仕立てたもので、生前の新之助が気に入ってよく着ていた。

 男前の色気たっぷりの航志朗の姿に安寿はぽうっと立ちすくんだ。満足げににっこりと微笑んだ咲がしゃがんで航志朗の着物の裾を整えながら言った。
 
 「正直申しまして、かなりお袖と丈が短いですが、とてもよくお似合いですよ、航志朗坊っちゃん。新之助さまを思い出します」

 黒い足袋をむき出しにしてすたすたと安寿の目の前にやって来て、航志朗はまた尋ねた。

 「どうだ、安寿? 君の前で初めて着物を着るな。ああ、浴衣は着たことがあったか。というより七五三以来だな、着物を着るのは」

 「七五三……、五歳の時の航志朗さんですね」

 すかさず咲が笑顔で言った。

 「あとで航志朗坊っちゃんの五歳の時の晴れ姿のお写真を持って参りますね。安寿さま、ご覧になられたいでしょう?」

 「はい! 見てみたいです!」

 思わず大声を出した安寿は恥ずかしくなって下を向いた。咲は安寿を見て目尻にしわを寄せて微笑んだ。

 明らかに顔を陰らせて伊藤がサロンにやって来て言った。

 「航志朗坊っちゃん、安寿さま。宗嗣さまは大変お疲れのご様子で、今日はお部屋でお休みされるとのことです。おふたりだけで正月の宴をと、おっしゃっていました」

 安寿が心配そうに航志朗を見上げた。腕を組んだ航志朗は黙ってうなずいた。

 安寿と航志朗は食事室のテーブルに並んで座った。モデルの仕事の合間を縫って少しだけ咲を手伝ったおせち料理が並んでいる。輪島塗の重箱に色鮮やかに詰められた豪華な料理は、手をつけるのがもったいなく感じてしまうほどだ。

 先程からずっと咲は自らのスマートフォンで安寿と航志朗の姿を撮影していた。咲は何回もシャッター音を立ててスマートフォンをタップした。とうとうその姿を見かねた伊藤に注意された咲は肩をすくめて、「おふたりで、どうぞごゆっくりとお正月をお過ごしくださいませ」と言って、伊藤と食事室をそそくさと出て行った。

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