今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 航志朗が安寿の顔をのぞき込んで言った。

 「結局のところ、二人だけの正月になったな、安寿」

 うなずいた安寿は祝箸を航志朗に手渡そうとしたが、航志朗は両腕を平行にして手を着物の袖に入れたままだ。

 (やっぱり、……そういうこと?)

 安寿は上目遣いで航志朗を軽くにらんだ。

 にやっと笑ってから、当然のことのように航志朗は安寿に向かって口を開けた。心底あきれた安寿は肩を落としてため息をついた。

 「もう航志朗さんたら、小さな子どもみたい」

 観念して航志朗の口におせち料理を運びながら、同じ箸で安寿は自分の口にも運んだ。着物姿のふたりはまるでままごとをしているかのようだ。食後のミカンも安寿が皮をむいて一房ずつ航志朗の口に入れた。

 「安寿、休暇が一週間も延長になったんだ。どこか二人で温泉にでも行くか?」
 
 苦笑いして安寿は三個目のミカンの皮をむきながら首を振った。

 まったくめげずに、また航志朗が言った。

 「じゃあマンションに移って、毎日どこかに出かけてデートしよう。そうだな、映画を見に行くとか食事や買い物に行くとか、ごく普通のデートを。俺たち、そういうのしたことがないだろ?」

 (……「普通のデート」!)

 さっと赤くなった頬に安寿は両手を置いた。航志朗と手をつないで東京のデートスポットを歩く光景を思わず頭のなかで想像してしまう。甘く胸が高鳴るが、無理やり安寿は首を振って航志朗に宣言した。

 「私、やらなければならないことがあるんです」

 「何をだ? 正月早々に」

 「もちろん絵を描くことです。やっとモデルの仕事がひと段落ついたんです。私、自分の絵を進めないと」

 姿勢よく安寿は航志朗をまっすぐに見つめた。航志朗は安寿の生真面目な意気込みに押されて反論を飲み込んだ。

 せっかくの航志朗との「普通のデート」の機会を自ら手離してしまって胸がきしんで痛くなってくるが、安寿は今の自分がやらなければならないことが頭のなかでどうしようもなく渦を巻いていた。

 (私には、ううん、私たちには時間がない。普通のデートをする時間なんて絶対にない)

 不満そうな表情を浮かべた航志朗に安寿は言った。

 「航志朗さん。絵に取りかかる前に、これから一緒に裏の森に行きませんか?」

 「あの森へ?」

 「はい」

 互いに着物をまとった安寿と航志朗は手をつないで岸家の裏の森の奥へと歩いて行った。顔に触れる森のなかの空気は一段とひんやりしている。ふたりの吐く息は白い。口をへの字に曲げて航志朗は思った。

 (俺たちのデートスポットはこの森か。まあ、彼女と一緒にいられるのなら、どこでもいいか)

 久しぶりに灰色の池のほとりに着くと、航志朗は樫の木の太い根本に座った。足を広げて航志朗は安寿を招いた。

 「安寿、ここに座ったら?」

 安寿は首を振って言った。

 「だめですよ。せっかくのお着物が汚れてしまいます」

 「そんなの構わないだろ。クリーニングに出せばいいんだから。ここにおいで、安寿」

 ため息をついてから「では、失礼します」と言って、恥ずかしそうに安寿はゆっくりと航志朗の膝の上に乗った。帯を締めているので、どうしても自然に背筋が伸びてしまう。

 くすっと笑った航志朗はぎゅっと安寿を抱きしめた。

 「そんなに礼儀正しくしなくていいのに。誰も見ていないんだから」

 その言葉に安寿は黒川の姿を思い出した。灰色ににごる池の水面に黒川家の襖が浮かんで見えてきた。

 (私、あの襖絵を完成させなくちゃ。一日でも早く……)

 ぼんやりと池を見つめた安寿の顔を引き寄せて、航志朗は安寿に唇を重ねた。いきなり濃厚に唇を押しつけられて舌をからめてくる。すぐに安寿は身体じゅうがとろけてしまって、航志朗に両腕を回してしがみついた。高価な着物がしわになってしまっても汚れてしまっても、もうどうでもよくなってきた。

 じれるように航志朗がつぶやいた。

 「着物がじゃまだな……」

 間近で安寿の瞳をのぞき込んで「部屋に戻って一緒に着物を脱ごうか、安寿」と甘い声でささやくと、航志朗は安寿の首筋にキスした。

< 349 / 471 >

この作品をシェア

pagetop