今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 大学の夏季休暇が始まった翌日の日曜日に、油絵道具と新品のキャンバスを抱えながら着替えを詰めたマウンテンリュックサックを背負って、安寿は航志朗のマンションにやって来た。岸や伊藤と咲には、油絵の制作に一人で集中したいから夏季休暇中はマンションで過ごすと言ってある。うそはついていない。

 合鍵でマンションに入ると、安寿は部屋全体を丁寧に掃除した。二階のウォークインクローゼットにはクリーニング済みの航志朗のダークネイビーのスーツが残されていた。思わず安寿は手に取って抱きしめたが、航志朗の匂いはしなかった。

 その翌日から安寿は毎日黒川家に通い出した。当然、黒川からは「夏休みなんだし泊まり込みで描けばいいだろう」と言われたが、安寿はその言葉を無視した。早朝に航志朗のマンションを出て地下鉄と電車を使って黒川家に向かう。深夜に黒川が運転する車で航志朗のマンションまで送ってもらう。別れ際にいつもにやっと笑った黒川にこう言われる。

 「彼が不在なんだから泊まっていってもいいだろう、安寿?」

 安寿はその言葉も無視した。

 ひたすらに安寿は襖絵を描き続けた。岩絵具を使いきると、容が黒川の注文した岩絵具を黒川家まで車を運転して運んでくる。容が黒川家の玄関に顔を出すと、安寿は隠れるように気配を消した。もちろん履いてきた靴はいつも手に持って広間に持って来ている。

 一番奥の広間は誰もやって来ない。世の中から隔絶されたような閉塞的な場所だ。ある意味では監禁されているのかもしれないと思ってしまうほどに。外は炎天下のはずなのに、ここはなぜかひんやりと涼しい。ときどき安寿は額から汗がしたたり落ちるのを感じる。暑くてかく汗ではない。おそらく冷や汗だ。いつも背後に黒川の存在を感じている。集中が途切れた時にはどうしようもない恐怖が襲ってくる。安寿はここから逃げ出したくなる自分自身と必死に闘っていた。

 (私はこの襖絵を完成させることができるの?)

 (あの森と交換できるくらいの価値を、私はこの手で生み出すことができるの?)

 そんな想いが安寿の頭のなかを駆けめぐる。自分のなかのどこを探しても自信なんて見つからない。ただ画筆を握って描くだけだ。

 こうして三週間が過ぎていった。盆入りを過ぎて八月半ばになった。安寿の描く岸家の裏の森がだんだんと精彩を放ってその全容を現してきた。それと同時に安寿と黒川の距離も近くなっていた。ふと我に返ると黒川がすぐそばにいて自分の髪をなでている。だが、安寿はなぜか抵抗しなかった。黒川のなすがままになってしまう。ついに後ろから抱きしめられても、安寿はそのまま描き続けた。黒川の身体が醸し出す匂いからどうしても離れられない。航志朗の匂いとは違う別の何かを感じる。それは嫌なものではない。むしろ心惹かれてしまう。すでに体力と気力の限界を超えている安寿は何も考えられない。

 安寿は自分の身体が襖絵に乗っ取られたような気分になってきた。

 (私は、今、……どこにいるの?)

 安寿の心はさまよいはじめた。

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