今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 結局、安寿と会わずに大翔と京都に戻った莉子はずっと迷っていた。安寿と黒川が一緒にホテルに入って行くのを目撃してから三週間がたった。あのあと大翔が鎌倉まで迎えに来てくれた。通りがかった近くの美容院の店長がうずくまった莉子に声をかけて、彼女の美容院の待合スペースで大翔が迎えに来てくれるまで待たせてくれた。礼を言ったふたりに店長は人懐っこい笑顔で言った。

 「くれぐれもお大事にね。赤ちゃんを抱っこする日が楽しみね!」

 店長は誤解していたが、莉子と大翔は顔を見合わせて恥ずかしそうに微笑んだ。

 莉子は大翔に自分が目撃した一部始終を話して聞かせた。顔をしかめて大翔は珍しく強い口調で言った。

 「安寿さんは莉子が想像しているようなやましいことはしていないと僕は思う。安寿さんと黒川教授は親戚なんだろ。そのホテルで何か集まりでもあったんじゃないのか。絶対に莉子の誤解だよ」

 「そうかな……」

 「そうだよ! 安寿さんはそんなひとじゃない」

 (大翔くんはそう言ったけれど、なんだか嫌な感じがする。黒川先生とそういう関係じゃないとしても、安寿ちゃん、何かトラブルに巻き込まれているんじゃないの? ひどく疲れているみたいだったし。いったい、私、どうしたらいいの……)

 莉子は大翔の姉が自室にしていた部屋にいる。大翔の姉は大学卒業後に結婚して家を出て行った。入籍したことを大翔の母の春香には内緒にできずに話してしまったが、大翔の父と住み込みの従業員の手前、莉子と大翔は別々の部屋で寝ている。もちろん夜中にこっそりと莉子は大翔の布団にもぐり込んでいる。

 莉子はずっと大事に財布にしまっておいた航志朗の名刺を手に取ってじっと見つめた。すべて英文だ。航志朗が『菓匠はらだ』の本店に初めて来店した時に手渡されたものだ。会社のアドレスの最後には「SINGAPORE」と記載されている。莉子はスマートフォンを手に取って名刺に書かれた電話番号を注意深くタップした。発信音が鳴ってから莉子は大変なことに気がついた。

 (シンガポールって、今、何時なの!)

 莉子のスマートフォンの時計は午後九時だ。

 すぐに応答があった。不審そうな航志朗に英語で話しかけられる。あわてて莉子は甲高い声を出して早口で言った。

 「あの、岸さん、私、原田莉子です。じゃなくて、宇田川莉子です!」

 『莉子、……ちゃん?』

 しどろもどろに莉子は自分が目撃したことをすべて洗いざらいに航志朗に伝えた。それから安寿の後をつけたことを謝った。だが、意外にも航志朗は落ち着いた言葉を返してきた。

 『そうか。莉子ちゃん、ありがとう。安寿のことを心配してくれて。確かその日にそのホテルで親戚の集まりがあったはずだったから、安寿は大丈夫だよ。それよりも安寿から聞いたんだけど、大翔くんと入籍したんだって? 莉子ちゃん、おめでとう! 今度会った時に安寿とお祝いをさせてほしい』

 航志朗の穏やかな声に莉子は心から安堵して涙がにじみ出てきた。

 (よかった。思いきって岸さんに連絡して。岸さんて本当に優しいひと! 安寿ちゃんは大丈夫だね)

 突然の莉子からの国際電話に航志朗は頭を抱えた。航志朗は午後二時のパリにいる。勤務している国立美術館の近隣のオープンカフェで遅い昼食を一人でとっていた時だった。

 (いったいどういうことなんだ? 安寿が皓貴さんとホテルに入って行ったって……)

 フランスも連日猛暑日が続いている。目の前の溶けた氷に薄まったアイスコーヒーを航志朗は一気に飲み干した。嫌な予感が航志朗を襲った。航志朗は苦々しい表情で吐き捨てるように胸の内で言った。 

 (絶対にあの女が何かたくらんでいるに違いない。すべての予定を切り上げて、すぐに安寿のところに帰る!)
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