今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる

第4節

 赤々とした炎の色が揺れている。石油ストーブがたかれたアトリエで、安寿は岸のモデルになっていた。カウチソファの上で立膝をして両腕を上げた安寿は、クリーム色がかったシンプルな白いドレスを着ている。

 このドレスは、夏の盛りに依頼主(デュボア)から送られてきたものだった。ドレスに同封されていた手紙には依頼主の肉筆で「このドレスをモデルに着てもらいたい。これは、私の祖母が母の姉のために仕立てたウエディングドレスだ。一度も身にまとわないまま、若くして伯母は亡くなってしまった。それは私が生まれるずっと前の我がデュボア家の悲劇だった。姉を心から慕っていた母は、彼女は天使のようなひとだったとよく語っていた。涙ながらに」と書かれてあった。

 安寿は華鶴からその手紙を見せてもらった。流麗な筆記体で書かれたフランス語だ。手紙の文面に目を落としたが、安寿は内容を理解できなかった。隣で目を細めた華鶴が翻訳してくれた。華鶴の横顔を見つめて、ひそかに安寿は心のなかで思った。

 (華鶴さんもフランス語が話せるんだ。あのひとを産んだ後に、華鶴さんはお一人で長らくパリに滞在されていた。どんなお気持ちでいらしたんだろう。まったく私には想像もつかないし、想像すること自体が華鶴さんにとても失礼だ)

 実はドレスの下に安寿は何も身につけていない。極上の薄絹で仕立てられたドレスはインナーを身につけると線が浮き出てだいなしになる。安寿は自分から岸に申し出た。「私、下着を脱ぎます」と。顔を青ざめて岸は安寿のけなげな決心をくつがえそうとした。

 「安寿さん、それは……」

 その時、真剣な表情で安寿は言いきった。

 「岸先生の絵のためです。どうぞ、ありのままの私を描いてください」

 安寿の全身が透けて見える。ほとんど裸の状態だ。胸の内で岸は穏やかではいられなかった。画家は自分が禁断の絵を描いているとじゅうぶん過ぎるほど承知していた。だが、どうしても描かずにはいられない。今、この瞬間にモデルから解き放たれる夢幻の光をキャンバスの上に留めておきたいと心の底から岸は欲した。

 アトリエのドアのすき間から華鶴が画家とモデルの姿を見つめていた。腕を組んだ華鶴は目を閉じると、その場を静かに立ち去って行った。

 やがて、十二月も下旬に入った。東京は真冬のような寒い日が続いている。

 飛行機を降りた航志朗はボーディングブリッジの窓から落ち着かない様子で陰鬱な曇天を見上げた。いつも通りに安寿を驚かせようと何も知らせずに帰国した航志朗は、空港に着くとすぐにタクシーに飛び乗って岸家に向かった。安寿を迎えに行くためだ。三か月間待ちわびた冬の休暇を絶対に安寿と二人きりで過ごすと航志朗は固く心に決めていた。

 タクシーの窓の外に流れる年末の街並みは心なしか気ぜわしく見える。岸家の門の前に到着すると、航志朗の鼓動が激しく弾みはじめた。毎日真っ昼間から遠く離れた安寿の声を聞いて心穏やかではいられなかった。傷ついた安寿が心配でよく眠れない日々が続いていた。やっと安寿にもうすぐ会える。

 インターホンを押すと、航志朗の予告なしの帰国を予想していた咲が満足そうに笑って玄関ドアを開けた。咲へのあいさつもそこそこにすぐに航志朗は岸家の中に滑り込み、階段を駆け上がった。あわてて階下から咲が航志朗に声をかけた。

 「航志朗坊っちゃん、安寿さまはアトリエの方にいらっしゃいますよ。この数か月、ほとんど毎日だんなさまのモデルになられているんです」

 「毎日だって? 今、父はどんな絵を描いているんですか」

 階段を下りた航志朗が顔をしかめて言った。

 「さあ、咲にはわかりません。でも、だんなさまも安寿さまも、それはそれは熱心なご様子で」

 「そうですか……」

 毎日の国際電話の会話では、一度も安寿は岸の絵のことに触れなかった。

< 399 / 471 >

この作品をシェア

pagetop