今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 岸がアトリエに戻って来て静かに言った。

 「帰って来たのか、航志朗」

 「はい。先ほど帰国しました」

 何も言わずに岸はイーゼルの前の椅子に腰掛けるとパレットに油絵具をしぼり出した。自ずから安寿はカウチソファの上で立て膝をして、両腕を宙に向かって差し出した。目の前でモデルのポーズをとった安寿の姿を航志朗は呆然と見つめた。ここで安寿と会ったあのはじまりの瞬間を思い出す。航志朗はそれに気づいて愕然とした。

 (あの日、俺が無意識にとった行動の意味がやっとわかった……)

 あの時、安寿は横になって目を閉じていた。確かにこの目で見た安寿の白い翼はやがて羽ばたく予感をもたらすかのように柔らかくはためいていた。この地上にとどめるために唇を重ねて、永遠に君は俺のものだというしるしを確かにつけたはずだった。だが、今、安寿は目を覚まして起き上がった。そして、今にも白い翼をはためかせて飛び立とうとしている。

 (安寿、いったい君はどこへ羽ばたいていってしまうんだ。俺の手の届かないところにか)

 悲痛な表情を浮かべて航志朗はその場にしゃがみ込んだ。そのまま航志朗は安寿を見上げた。安寿の視線ははるか遠くを見つめている。足元にいる航志朗の姿がまったく目に入らないかのように。その場にいることがどうしようもなくつらくなってきた航志朗はうなだれてアトリエから出て行った。

 画家もモデルもそれぞれの役割に集中していて、まったくそれに気づかなかった。真っ黒な瞳を浮かべて安寿は空の彼方にいる誰かに向かって手を差し伸べた。だが、その先には誰もいないことに安寿は気がつかない。敬愛する岸の役に立ちたいという熱い想いと空っぽの空間にこがれるように手を伸ばしている虚しさが、安寿の身も心もじわじわとむしばんでいく。

 外が暗くなってきて、さらに気温が下がった。

 (まだ終わらないのか……)

 サロンのソファに腰掛けた航志朗は火が入っていない冷え冷えとした暖炉を険しい目つきで見つめていた。最後にこの暖炉の炎を見たのはいつのことだったのだろう。たぶんまだ祖父母が存命だった頃だ。このだだっ広い空間そのものがアンティークになろうとしているサロンには、現代のエアコンはまったく役に立たない。底冷えがしてきて身体が震える。航志朗は目の前のティーカップの取手に触れたが、中は空だった。深いため息をついてから航志朗は立ち上がった。

 暗くなった窓の外を見て、岸が安寿に声をかけた。

 「安寿さん、今日はこれで終わりにします」

 その声に安寿はがくっと体勢を崩してカウチソファにしゃがんだ。安寿の膝も腕もがくがく震えて痙攣している。その疲れ果てた安寿の姿を眉間にしわを寄せて見た岸が時計を見ると、かなり長時間にわたって安寿にポーズをとらせていたことに気づいた。すぐに岸は安寿の隣に座ると、安寿の膝と腕を優しくさすりながら言った。

 「安寿さん、本当に申しわけない。今日もあなたにとても無理をさせてしまいました」

 「いいえ、私は大丈夫です。岸先生こそお身体は大丈夫ですか? ここのところ、ずっと休まずに絵をお描きになられていらっしゃるから」

 限りなく透き通った瞳で安寿は岸を見つめた。

 「安寿さん……」

 岸は安寿に腕を回してそっと抱きしめた。初めて岸の胸に安寿は触れた。羞恥心も嫌悪感もまったく感じない。ただ、とても心が安らぐのを感じるだけだ。それにずっと前からこの感覚を知っていたような気がする。それはいつのことだったのだろう。そう、岸と初めて黒川画廊で会った時だ。安寿は岸の穏やかに包み込まれるような感触に目を閉じて思った。

 (航志朗さんに抱きしめられるのとは全然違う。もしかしたら、お父さんに抱きしめられるのって、こんな感じなのかな……)

 身体を岸に預けた安寿はその腕の中で安心感に包まれた。目を細めた岸は優しく安寿の長い黒髪をなでた。

 その時、アトリエのドアが全開して航志朗の怒鳴り声が聞こえた。

 「安寿!」

 安寿は肩を怒らせて近づいてきた航志朗をぼんやりと見つめた。航志朗は岸の腕の中から安寿を引き離すと、安寿の腕をつかんでアトリエを出て行った。

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