今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 スーパーマーケットのベーカリーで買って来たバゲットにゆで卵とツナとサニーレタスをはさんだ簡単なサンドイッチを昼食に食べると、安寿はイーゼルをリビングルームの窓辺に立てた。思い惑った様子で安寿はキャンバスバッグのファスナーを開けてキャンバスを中から取り出した。すぐに航志朗がやって来て安寿の絵をのぞき込んだ。今まで航志朗が見てきた安寿の絵の中で一番大きいサイズだ。

 ひどく落ち込んだ表情でうつむいて安寿が言った。

 「この絵、どうしても思うように描けなくて……」

 思わず航志朗は安寿の絵を見て顔をしかめた。抽象画なのか心象画なのか判断するのは難しいが、どう見てもたくさんの白い羽根が地面に舞い落ちていく絵だ。白い羽根は無理やりむしり取られたように生気がない。

 (安寿の心は、まだ相当に傷ついているんだな……)

 顔をしかめて安寿を見つめながら航志朗は思った。

 それでも安寿は画筆を握ってキャンバスの上に走らせた。たちまち油絵具のオイルの匂いがリビングルームに漂った。それは航志朗にとって不快な匂いではない。むしろ身体に染みついた匂いだ。だが、その匂いは航志朗の記憶の奥底にある光景をいやがおうでも思い起こさせた。

 子どもの頃、父のアトリエに入れてもらえない時期があった。抑えきれない好奇心にそそのかされて、ある日の午後、航志朗は小学校から帰宅すると、こっそり裏の森に面した窓から父のアトリエをのぞき込んだ。

 そこに祖母の肘掛け椅子に座った見知らぬ長い黒髪の女の後ろ姿が見えた。今まで見たことがないくらいの熱のこもったまなざしでその女を見つめて、父はキャンバスに向かっていた。航志朗はぞっとして身体を震わせた。見てはいけないものを見てしまった気がした。一刻も早くこの場を立ち去ろうと思ったが、身体が硬直して動かない。その時、画筆を置いた父が立ち上がってその女の前に立つと、手を伸ばしてその艶やかな黒髪をなでた。そして、父は女の顔の前にかがんだ。その瞬間、航志朗は固く目を閉じた。

 絵を描く安寿を見つめながら航志朗は思い出した。昨日、父が安寿を抱きしめているのを目撃して、激しい怒りに取り囲まれた理由もわかった。

 (やっぱり、あの時の黒髪の女性は安寿の母親だったんだ。でも、なぜ安寿の父親はあのコーセー・ツジなんだ? 父と愛さんは愛し合っていたんじゃないのか)

 航志朗はブックシェルフを見つめた。その中にはずっと安寿の母親のジュエリーボックスがしまってある。

 そのジュエリーボックスに入っていたブローチに刻まれたイニシャルは「M&A」、宗嗣の「M」と愛の「A」だ。愛が安寿に遺した預金通帳は、恵と相談して銀行の貸金庫に預けてある。通帳に振り込まれていた金は慰謝料ではなく、おそらく画家のモデルとしての報酬だったのだろう。あるいは、なんらかの慰謝料も含まれていたのかもしれない。ふいに航志朗の脳裏に、古閑ルリの姿が浮かんだ。

 (その真相をルリさんは知っている。……絶対に)

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