今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 「航志朗さん、そろそろ夕食の準備をしますね」

 安寿の声に航志朗は現実に引き戻された。ふたりはキッチンに立って卵白を泡立てはじめた。腕がしびれてきたら交替だ。少し元気が出てきた様子の安寿を見て航志朗はほっとした。安寿は最後に溶かしたチョコレートをさっくりと切るように混ぜてできあがった生地をオーブンに入れると、今度は豚ロース肉のブラウンシチューに取りかかった。

 ダイニングテーブルの上には赤いバラの花がいくつかのグラスに分けて飾られてある。それだけでじゅうぶんクリスマスらしい雰囲気になった。キャンドルも用意した。静かに灯る炎に照らされて、きっと二人きりのロマンチックなイブの夜になるだろう。

 (もしかしたら、安寿と……)と航志朗の胸に甘い期待がわきあがってくるが、もちろん無理強いはできない。料理の合間に安寿はキャンバスの前に立って何回もため息をついた。昼間からずっと航志朗は自分の力量のなさを痛感していた。西洋美術史の修士号とアート・マネジメントの博士号を持っているというのに、安寿への的確なアドバイスがどうしても浮かばない。安寿の前ではその二枚の学位証明書はただの紙切れだ。そして、ギャラリーは持っていないが安寿のギャラリストだというのに、安寿のよき伴走者になれない。

 (そして、彼女の夫としても、俺は何かが足りないんだ……)

 航志朗は苦しそうにうつむいた。

 航志朗の想いとは裏腹にオーブンレンジのメロディーが楽しげに鳴った。安寿がオーブンを開けると焼きあがったチョコレートケーキの甘い香りが部屋じゅうを包んだ。

 (よかった。ちゃんと焼けたみたい)

 安寿は胸の内でほっとした。チョコレートケーキに生クリームをたっぷりかけたいとスーパーマーケットで航志朗が言い出したので、高脂肪タイプの生クリームも買ってある。安寿は生クリームをリズミカルに泡立て始めた。航志朗が安寿の泡立てぶりに感心して言った。

 「安寿、君ってけっこう腕力があるんだな」

 安寿は複雑な表情を浮かべて言った。

 「だって、私、鍛えられていますから」

 「鍛えられている?」

 「ええ、モデルのあのポーズに」

 恥ずかしそうに安寿が言うのを見て、思わず航志朗は押し黙った。また頭のなかに重苦しい怒りが急激に生成されていくのを感じる。認めたくはないが、自分が安寿と父の関係に嫉妬しているのはじゅうぶんわかっている。なんといっても、父はほとんどヌードの状態の安寿を描いているのだ。航志朗は自分を抑えきれずに泡立て器を振るう安寿を後ろからきつく抱きしめた。安寿が手を止めて身体を硬くさせたのを感じるが、安寿を腕の中に抱きしめたまま身をかがめてキスしようとした。

 「ん?」

 航志朗の唇に何かが触れた。安寿がくすっと笑って航志朗を見上げた。安寿が泡立てた生クリームを人さし指で航志朗の唇になすりつけたのだ。

 まっすぐ人さし指を立てて、可愛らしく安寿は言った。

 「味見してください、航志朗さん」

 ぺろっと航志朗は唇をなめると、そのまま安寿の唇にその唇を軽く押しつけて言った。

 「ほら、安寿も味見できただろ?」

 頬を赤らめた安寿は潤んだ瞳で航志朗を見つめた。また航志朗は安寿に唇を重ねようとしたが、「私、お風呂の用意をしてきますね」と言って、安寿はキッチンを小走りで出て行った。航志朗は深く肩を落として思った。
 
 (もしかして、俺、安寿に嫌われたのか……)

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