今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 紅茶を飲んでからルリは静かに淡々と話を続けた。

 「私は一度だけ、愛さんに会ったことがあるの。突然、その年の夏に兄は熊本に帰って来た。彼は一人ではなかった。長い黒髪の若い女性を連れていた。彼女はとても美しく、そして、どこかはかなげなお方だったわ。兄に会ったのは本当に久しぶりだった。地元の中学を卒業してから東京の高校に進学して、数年に一度だけ、兄の実母の命日しか帰省しなかったから。父が亡くなった時でさえも兄は帰って来なかった」

 航志朗は目線をティーカップに落とした。
 
 「ふたりはあの別荘で夏の休暇を過ごしていた。海にも行かずに別荘の中に閉じこもって。いったい何をしていたのかしらね」

 思わず航志朗は顔を上げてルリの表情をうかがった。ルリは窓の外に目をやった。航志朗がルリの視線をたどると、灰色の曇り空の下で凍ったバルト海に浮かぶ群島が見えた。フィンランドの多島海域(サーリストメリ)だ。航志朗は熊本の海を見ているような不思議な錯覚を起こした。

 「早朝に私が海へ行ったら、愛さんが一人で砂浜に座っていたの。彼女は泣いていたわ。そして、私の目の前で白い小石を海に向かって投げた」

 「白い小石……」

 航志朗はおととしの夏に安寿が海で拾った白い石を思い起こした。

 「ええ。ずっと兄が大切にしていた石よ。子どもの頃、あの海で彼のお母さまが見つけたって、昔、兄が言っていたわ」

 「どうして、愛さんは泣いていらっしゃったのですか?」

 静かにルリは首を振って言った。

 「それはわからないわ。その日のうちに愛さんは一人で東京に戻られた。血相を変えた兄が屋敷にやって来て、彼女の姿を必死になって探していたけれど、もうすでに彼女は熊本を去っていた。そして、その翌年の春、突然、兄は東京で築き上げてきたすべてを捨てて、ニューヨークに旅立ってしまった。おそらく安寿さんが生まれた知らせをどこからか耳にしてから」

 遠い目をした五嶋がルリの隣でつぶやくように言った。

 「あの方のお姿はこうごうしいほど美しく透き通っていて、そして、哀しく陰った瞳をしていらっしゃいました。初めて安寿お嬢さまにお会いした時にそれを鮮明に思い出して、あの時、私は内心震えていました」

 「五嶋さんも安寿の母親に会っていたんですね。では、アカネさんも?」

 「いいえ。アカネは高校時代から海外留学をしていて、当時、あの家にはいなかった。ですから彼女は何も知りませんし、今後も話すつもりはありません。実は、安寿さんがあなたと結婚したことを知ってから、直接あなたに会わなければと考えていました。あなたたちが熊本にやって来る機会をアカネが偶然つくって、本当に驚きました。でも、兄が呼んだのかもしれませんね、あなたがたおふたりを、あの場所へ……」

 航志朗は空になったティーカップを見つめた。それはシンプルで温かみのあるフィンランドらしいデザインだ。五嶋が航志朗とルリのティーカップに熱い紅茶を注ぎ足した。紅茶から立つ湯気は現実味がない。遠い昔の幻のようだ。

 「航志朗さん。私、あなたのお母さまと兄との関係も存じております。兄が亡くなる二週間前に、ある女性が兄を尋ねてきました。きっと死期を悟った兄が呼んだのね。その方は大きなブリムの麦わら帽子を被っていてお顔はよく見えなかったけれど、とても洗練された美しい女性だってわかったわ。彼女は兄が寝ている部屋に入ってから十分もしないうちにすぐ出てくると、何も言わずに去って行った。あのお方、……あなたのお母さまね」

 下を向いた航志朗は生成りのリネンのテーブルクロスの下でこぶしを固く握りしめた。

< 424 / 471 >

この作品をシェア

pagetop