今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 まだ午後三時だが辺りが薄暗くなってきた。窓の外に目をやった航志朗はルリに最後の質問をした。

 「ルリさん。あなたはこれから安寿とどういう関係を持とうと考えていらっしゃるのですか? つまり、古閑家を安寿に継がせるとか」

 「安寿さんが望むのなら、私は喜んで彼女に莫大な古閑家の遺産を譲るわ。でも、安寿さんがあのやっかいな遺産を手に入れたいと思うかしら。それに、今さら私と安寿さんの血縁を確かめても意味はないでしょう。もう兄はこの世にいないのだから……」

 ルリの瞳に涙がたまりはじめた。すぐにそれに気づいた五嶋がルリの手を握った。

 「私はね、航志朗さん。私はずっと兄が好きだったの。子どもの頃からずっと。そう、彼は私の初恋のひとだった。中学生の時にいきなり彼が私の兄になるって父から聞いて、本当に悲しかったわ。絶対に彼とは結婚できないんだって思ったから」

 ルリは五嶋にしがみついた。五嶋はルリを抱きしめて、優しくルリの背中をさすりながら言った。

 「私もまた子どもの頃からルリさんが好きでした。雲の上のお方なのに、どんな人にでも分けへだてなくお優しい心で微笑んでくださるルリさんを心から尊敬してきました」

 小さな子どもがいやいやをするように首を振ってルリは言った。

 「本当の私は、そのように尊敬される人ではありません。そういうふうにふるまうように、子どもの頃からしつけられてきただけ。ずっと古閑家の長女として、私は息が詰まって苦しかった。屋敷の外に出ると誰もが私のことを知っていて、深々と頭を下げてあいさつしてくる。私は外に行くのが苦痛になっていった。そして、部屋に閉じこもって日本画を描き続けた。目の前の現実から目をそらしたくて」

 しばらくルリは五嶋の腕の中で嗚咽していた。しっかりと五嶋はルリを受け止めていた。航志朗はルリと五嶋の姿をそっと見守っていた。やがて、落ち着いてきたルリが赤くなった目をこすって口を開いた。

 「今、私、今までで一番幸せなのよ。ここには、私の生家のことを知っている人は誰もいない。思いきって初めての飛行機に乗って正解だったわ。世界中を飛び回っている航志朗さんには想像もできないんでしょうけれど、私、この歳になるまで九州から一度も出たことがなかったのよ」

 ルリは愛おしそうに五嶋を見つめた。

 「それに、今、私は一人じゃない。子どもの頃からずっと一緒にあの家で過ごしてきた衆さんがいる。私は衆さんの存在に気づいていなかった。あまりにも長い間、私の一番近くにいてくださったから」

 琥珀色の瞳を潤ませて微笑みながら航志朗はうなずいた。目の前の両親と同じ年頃の夫婦が睦み合う光景に、航志朗は数十年後の自分たちの姿を想像した。

 (歳を重ねた安寿と俺も、こんなふうにお互いを思いやっていたい。いや、思いやっているはずだ。今、心から愛し合っている俺たちなんだから)

 その日の夜遅く、航志朗はヘルシンキに戻って来た。特急列車の中で軽食を取っていたが、ホテルの部屋に戻ってからルリが持たせてくれた甘すぎる手作りクッキーを口にした。

 航志朗の心はすでに安寿のもとへと飛んでいた。

 (安寿、明日のフライトで君のところに帰るよ。もうすぐ愛する君に再会できる。そして、俺は君を抱きしめる。……この腕の中に)
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