今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 北極上空を飛行して十三時間かかるフライトを、航志朗は努めて規則的な呼吸を保って耐え抜いた。成田空港に到着したのは、午前九時だった。

 飛行機を降りてスマートフォンを開くと、伊藤からメールが来ていた。胸の鼓動が早まる。深呼吸をしてから航志朗はメールを開いた。アトリエで岸が倒れて救急車で運ばれた旨と、運ばれた救急病院から先程主治医のいる大学病院に転院したと書かれてあった。岸の容態については何も書かれていない。航志朗は最悪の事態を覚悟した。すぐに空港からタクシーに乗って航志朗は大学病院に向かった。父の容態が心配だが、目の前で父が倒れた事態を目撃した安寿のことが気がかりだ。

 航志朗は大学病院に到着すると、受付で案内された集中治療室にスーツケースを引いて向かった。

 冷えきったその廊下の長椅子には、華鶴が一人きりで座っていた。母と会うのは、昨年の夏のあの夜以来だ。スーツケースのキャスターの音にうつむいていた華鶴が気づいて顔を上げた。集中治療室で酸素投与をされた岸がベッドに寝かされているのがガラス越しに見えた。

 航志朗は華鶴と顔を合わせた。大人になってから化粧をしていない母の顔を見るのは初めてだ。場違いなのはわかっているが、思わず母のことを改めて美しい女だと思ってしまった。

 少し疲れた様子で首を振ってから華鶴が言った。

 「ずいぶんと早く帰って来たのね、航志朗さん」

 「予定よりも早くパリでの仕事が終わりましたので」

 「そう。でも、ここは私に任せて、あなたは安寿さんのところに行きなさい」

 「父の容態は?」

 「主治医の話だと小康状態だとおっしゃっていたわ。でも、予断を許さないって」

 「そうですか」

 少しだけ安堵して航志朗はうつむいた。

 「とにかく、航志朗さん、安寿さんのことを頼んだわよ。私、彼に頼まれたんだから、安寿さんのことを」

 「『彼』? ……安寿の父親にですか」

 「そうよ。彼が亡くなる直前にね」

 「こんな時に言うのもなんですが、あなたにうかがいたいことがあります。なぜ、あなたは安寿に近づいたんですか? それも彼女が小学生だった時から」

 「何回も同じことを言わせないで。もちろん彼に頼まれたからよ」

 「安寿は白戸愛さんの子どもで、愛さんはかつて父が愛したモデルの女性だ。そんな女性とあなたが子どもまでもうけた男性との間に生まれた安寿に、あなたはどうしてそんなにも執着するんですか?」

 口元に華鶴は笑みを浮かべたように見えた。その異様さに航志朗は顔をしかめた。

 「決まっているでしょ。私、安寿さんが欲しいの。航志朗さんだって、ご存じのはずよ。安寿さんは、康生さんの絵の才能を受け継いでいる。いいえ、実の父親以上に抜きん出た凄まじい才能を持っているわ。私は、安寿さんの絵がこの世界に羽ばたいていくのをこの目で見てみたいよ!」

 琥珀色の瞳の奥を陰らせて、航志朗は凪いだ水面のように静かに言った。
 
 「安寿は、あなたのものにはならない。子どもの頃の俺が、あなたのものにならなかったのと同じように」

 「そうだったわね。十五歳のあなたは、私のもとから逃げ出した」

 「今も正しい選択だったと思っています」

 そう言うと目を閉じて航志朗はうつむいた。

 華鶴は何も答えなかった。

 一瞬、意識のない父の姿を強いまなざしで見すえてから、航志朗は華鶴に背を向けて言った。

 「安寿のところに帰ります。……父をよろしく」

 スーツケースのキャスターが病院の床の上を転がる乾いた音と航志朗の規則的な足音が華鶴の耳から遠ざかって行った。

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