今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 逃げるように客間に走って行った航志朗はダウンジャケットをつかんで羽織ると、すぐにエントランスから屋敷の外に出て行った。外は音を立てて大雪が降っている。傘をささずに白い闇の中へ航志朗は駆け出した。

 真っ白な雪に覆われた市民農園が見えたことまでは覚えている。それから後は覚えていない。気がつくと、航志朗はマンションの前に立っていた。ダウンジャケットのポケットを探ったが、鍵を持っていないことに気づいた。航志朗は管理人室に行って管理人の高羽から合鍵を借りてマンションの中に入った。

 真っ暗な部屋に入ると、タオルで濡れた髪を拭きながら航志朗はソファに座った。安寿がいない部屋の空気に触れて、永遠に安寿を失ったことが現実味を帯びてきた。航志朗は湿った冷たいタオルで顔を覆った。自分の嗚咽する声が耳に入ってくる。暗闇のなかで航志朗は思った。

 (もう俺は日本(ここ)にいられない。すぐに飛行機に乗って、ここを去る。そして、二度とここには戻って来ない……)

 顔を上げて航志朗は部屋の中を見回した。この部屋で安寿と一緒に過ごした時間が目の前によみがえってきた。それは航志朗の頬にそっと柔らかく触れて消えていく。航志朗はその淡い光をつかまえようともがいた。だが、航志朗の指のすき間からその光はこぼれ落ちていく。

 左手の薬指につけられた結婚指輪が鈍く光った。しばらく航志朗は結婚指輪を見つめてから、ゆっくりと薬指から外した。急に軽くなった薬指が、一瞬、頼りなげに揺れた。手のひらにのせた結婚指輪に航志朗は指先でなでるように触れた。

 ふと顔を上げるとブックシェルフの中に置かれたままの愛のジュエリーボックスが目に入った。航志朗は結婚指輪をその中に収めようと思い立ち、立ち上がってガラス扉を開けて取り出した。

 ジュエリーボックスを開けると、銀色のブローチに目が留まった。おそらく父が生前の愛に贈ったものだ。手に取ってブローチに彫られた「M & A」の文字を見つめる。アルファベットの溝を指でなぞると、急に航志朗のなかに激しい怒りが生じてきた。

 自分を抑えきれずに航志朗は大声で怒鳴った。

 「ふざけるな! なんなんだよ、俺と安寿を引き裂きやがって! 安寿は、やっと会えた、俺の大切な大切な心から愛するひとなのに……」

 銀色のブローチを航志朗は思いきり床に叩きつけた。ブローチは一度バウンドして転がり、ブックシェルフの底にぶつかって音を立てた。それは、甲高い金属音だった。

 「……なんだ?」

 不審に思った航志朗はかがんで本棚の幕板を見た。その中央には真鍮の小さな飾りがついているが、よく見るとずれている。

 「なんだこれは?」

 航志朗が飾りを指でさらにずらすと小さな穴が見えた。──鍵穴だ。

 その瞬間、航志朗の琥珀色の瞳が光った。すぐに航志朗はブローチを拾って振った。からからと音がする。確かに安寿が見つけた小さな鍵が入っている。航志朗は急いでブローチをひねって回し、中から小さな鍵を取り出した。胸の鼓動を早めながら、小さな鍵をつまんで鍵穴に合わせた。ぴったり合致した。航志朗は鍵を注意深く鍵穴に差し込んで回した。微かに音がして、確かな手ごたえを感じた。

 航志朗はそこに隠された引き出しを見つけた。震える手で引き出しを開けると、ほこりが舞い上がった。手でほこりを左右にはらってから引き出しの中をのぞき込むと、中に一冊の古びた本が入っていた。

 本の上に薄く降り積もったほこりを手で払って何度も息を吹きかけてから、航志朗は本を開いてページをめくった。

 航志朗は目を見張った。一度本を閉じると胸に抱いてソファまで持って行き、航志朗はソファに座って深く息を吸った。

 (これは本じゃない。……曾祖父の手帳だ)

 色褪せて何色だったのかもはや判別できない表紙を、そっと航志朗はなでた。再び手帳を開く。曾祖父の手書きの記録がフランス語で書かれてあった。ソファに座り直して航志朗は曾祖父の手帳を読み始めた。初めて渡欧したパリでの困難続きの事業展開となかなか慣れない西洋での生活の記録が書かれてあった。また、ヨーロッパ諸国での美術品の買い付けの記録、事業の経費や生活費の金額、当時のスケジュールまでもが几帳面に記録してあった。

 (曾祖父もパリにいたのか……)

 数日前まで滞在していたパリでの日々が遠い昔のことのように感じる。

 そして、航志朗は、曾祖父がその生涯で誰にも話さなかったパリでの道ならぬ恋の真相を知った。
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