今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 「彼女(エル)」は、航志朗の曾祖父の岸(あまね)が借りていたアパルトマンの裕福な家主の娘で、ブルネットで琥珀色の瞳をした十八歳の美しい少女だった。

 「彼女」は心から絵画を愛していて、日本から絵画を買い付けに来ていた周の部屋をよく訪れていた。そこに日本へ輸送される前のたくさんの美しい絵画が置かれていたからだ。「彼女」は、周が感心するくらいの並外れた美意識を持っていた。そして、ふたりは絵画の趣味が合った。時折、周は、子どもの頃に決められたフィアンセとの結婚前の時間を持て余していた「彼女」を連れて絵画の買い付けに行った。

 「彼女」の家族は、母と年の離れた妹の二人だけだった。上流階級出身の父は「彼女」が子どもの頃に、巨億の遺産を残して亡くなったと聞いた。周から日本に妻と三人の息子がいると聞いていた「彼女」の母は、顔立ちが整っていて心優しい気遣いを見せる周を信用し、周を娘の有能な家庭教師のように考えていた。「彼女」の母は、娘が周の部屋に頻繁に通っていることにまったく不信感を持たなかった。何よりも周と「彼女」は、十八歳も年が離れていたからだ。

 その二年後、慣れない海外での長期生活に疲労がたまっていた周が体調を崩し、高熱を出して寝込んだ。流行り病の可能性があったが、心配した「彼女」は付きっきりで周を看病した。

 その時「彼女」は気づいた。周を心から愛していることを。「彼女」は、初めての恋に夢中になった。当初、周は自分への愛を情熱的に訴える「彼女」を拒んでいた。内心では「彼女」に魅かれていたが、日本に妻子がいるのだ。親同士が勝手に決めた結婚で妻を愛してはいなかった。だが、遠い日本からやって来た既婚者の自分が「彼女」を幸せにすることができないのは明らかだ。

 周はアパルトマンを引きはらって「彼女」から逃げるように日本へ一時帰国した。「彼女」はその半年後に結婚を控えていたので、自分が不在の間にあきらめるだろうと考えたからだ。

 その半年後を過ぎて、パリに戻った周は「彼女」が婚約を破棄して家に引きこもっているという事実を知った。居ても立っても居られずに、周は「彼女」に会いに行った。衰弱しきった「彼女」は周を見て半年ぶりに微笑んだ。そして、ふたりは許されない恋に落ちた。

 その一年後、周は別の事業のために日本に帰国しなければならなかった。その時、すでに「彼女」は周の子を身ごもっていた。だが「彼女」はそのことを周に伝えなかった。周は日本での事業が一段落したら必ずパリに戻って来ると「彼女」に約束した。

 その二年後、再びパリにやって来た周を「彼女」の年の離れた妹が迎えた。妹は「彼女」によく似た女の子を抱いていた。そして、周との子を出産した時に、姉が心臓発作で亡くなったと泣きながら語った。

 その当時、第二次世界大戦が始まり、パリには戦火が迫っていた。ここで私たちが育てると言いはった妹と「彼女」の母を説得して、周はその女の子を日本に連れて帰った。初めて心から愛した「彼女」の遺した子どもを。

 私は、彼女に「愛している」と一度も伝えなかった。いくどとなく彼女からそう言われていたのに。私はこれまでのすべてを捨てて、彼女を幸せする勇気と自信がなかったのだ。彼女はこの世に生を受けたばかりの娘と私を残して、天国へ逝ってしまった。ずっと私はこの想いを彼女に伝えたかった。だが、もう遅い。私たちが愛し合った場所から遠く離れて、私は彼女の愛おしい面影を追いながら、やがて年老いて死ぬだろう。本当に、私は、彼女に「君を心から愛している」と伝えたかった。

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