今、君に想いを伝えて、ここで君を抱きしめる
 ふと黒川は安寿が使っている油絵具の入った箱を見つめた。木製の箱のふちに付着した薄桃色のしみが黒川の瞳に映った。黒川はしゃがんで、なにげなくさびついた銀色の内箱を持ち上げた。その瞬間、黒川は大きく目を見開いた。

 黒川は安寿を見上げて尋ねた。

 「安寿、これも君が描いたのか?」

 安寿は黒川が持ち上げた父の油絵道具が入った箱を見て急に顔色を変えると、大急ぎで脚立を降りた。そして、食い入るように隠されていた箱の内側を見つめた。

 「これ、お父さんが描いたんだ……」

 黒川が安寿を見つめて厳かに言った。

 「……あの画家が描いたのか」

 「この油絵道具の箱、お父さんがずっと使っていたものだそうです。亡くなる直前まで」

 航志朗も脚立を降りて、黒川から箱を受け取りその内側を見た。そこには、たくさんの桜の花びらがあふれんばかりに描かれてあった。航志朗はフィンランドで聞いた古閑ルリの話を思い出した。

 「安寿、実はパリから帰る前にフィンランドに寄って、ルリさんと五嶋さんに会ってきた。その時、ルリさんから聞いたんだ。『兄は、一度だけ安寿さんに会ったことがあるって言っていた』って」

 航志朗を見つめた安寿の瞳の奥が光った。

 「愛さんが亡くなった知らせを耳にして、君のお父さんは急遽ニューヨークから帰国した。そして、君に会いに行った。それは暖かい春の日で、君は満開の桜の木の下で、桜の花びらを集めて一人で遊んでいたそうだ。君のお父さんは、君の父親だと名乗って、母を亡くした君を抱きしめたかった。でも、それはできなかった。君を探しに来た恵さんが君の手を握って家に連れて帰ってしまったから」

 安寿の目から涙がこぼれ落ちた。安寿は目の前の黒川の胸に抱きついた。黒川は安寿をしっかりと抱きしめて、着物の袖で安寿の頬を優しくぬぐった。

 (安寿、俺の方じゃないのかよ……)

 機嫌悪そうに航志朗は思いきり顔をしかめた。

 目の前で起こっていることがさっぱり理解できない庭師は、いちおう気がついたことを黒川に伝えた。

 「ご当主、お召しものに絵具がつきましたけれど」

 庭師の言葉に急に我に返った安寿は、顔を赤くして黒川からあわてて離れた。

 黒川が身にまとった誰が見ても高級そうな着物の背中に、安寿の二つの白い手形がくっきりとついている。

 「まあ、いいだろう。僕の可愛い妹がつけたんだ。いい記念になるさ」

 首をかしげた庭師はまた場違いな発言をした。

 「ご当主、私には、それが天使の羽に見えますけれど……」

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